みなさん「価値観のクラウド化」という言葉を知っていますでしょうか?
知らないですよね・・、だってこれは私が今勝手に作った言葉ですから・・。
私は一日中スマホをいじくりまわしてネットに入り浸っている系の人間で、分からないことは何でもググって解決してしまいます。
ニュースはまとめサイトで見て、買い物するときはランキングサイトで評判を見て、分からないことは質問サイトで検索してといった具合です。
自分のやるべきことは、ネットの向こう側(クラウド)が何でも教えてくれて、もはや自分で何も考える必要がなくなってしまったかなしい状態、これを「価値観のクラウド化」と呼んでいます。
こういう人、私以外にも多いと思うんですよね・・。
目次
価値観がクラウド化するとどうなっちゃうの?
ネット上から「情報」をダウンロードするどころか、「価値観」をダウンロードして、自らの行動の指針にしてしまう習性、これが「価値観のクラウド化」です。
こういう人々が世の中に増えてくると、一体どんなことが起きてしまうんでしょうか・・?
たとえば以下のような例を挙げてみます。
最近「量産型大学生」といって、まったく同じような髪型・服装をした大学生が増えてるそうですが、これはみんなで同じ「ファッション・センス」をダウンロードして、自らに内面化してしまった結果じゃないでしょうか?(私もよく人とかぶってしまう服を選んでしまうことが多いんですよね・・)
また、私が就活していたときの話ですが、ネット上で「就職偏差値ランキング」というのが流行っていて、みんなやたらとそこにランキングされている会社を受けまくっていた記憶があります。説明会とかに行くと私と同じ学科の人間が何人もいたりして、お互い受験する会社が被りまくってしまい、なんだか苦笑いのような状態になってしまったことがありました・・。
また、私のお父さんは選挙のときに2chやツイッターをガン見していて、いつもネットの空気を読みつつ投票先を決めています。最近のお父さんの投票先はモロ典型的な「2ch系ネット民」の傾向を帯びていて、「ちょっとネットの影響受けすぎやろ・・」と心配になってきている今日この頃です。
こんな風にあまりに価値観が「ネット」に準拠してしまうと、世間の人々の行動パターンから「多様性」がなくなってしまって、まるでハンコで押したように同じ行動をする人が増殖してしまう傾向があるんだと思います。
これはいかにも21世紀的な展開、なんだかSFチックな社会現象といえそうですね・・。
専門家システムに頼りまくる人々!
いくら便利とはいっても、いったいどうしてみんなこんなに「何かの判断」をするときにネットを利用するようになってしまったんでしょうかね・・?
ここで社会学者のギデンズに登場してもらいます。
ギデンズは近代社会には、以下のような特徴があると述べました。
古き良き近代以前の時代には、人々は慣れ親しんだ「ルーティーン」に従った行動をするだけで生活を営むことができました(”ルーティン・ワーク” とかのルーティンです)
しかし近代は「ドッグイヤー」と言われるほど物事の移り変わりが激しい時代です。昔ながらの「ルーティーン」はもはや通用しなくなってしまい、「新しい未知の問題」に自分の力で対処しなくてはいけない機会が多くて、人々は先行きが見えない「不安感」に陥りやすいそうです。
そういったときにみんなが頼りにする存在の一つが「専門家システム」です。
人々は複雑な事情に精通した「専門家の意見」や「科学的根拠」を参照して、自分の判断が正しいかどうかを「再帰的に確認」して、安心したがる傾向があるそうです。
「みんなから変だと思われないファッションってどんな感じ?」
「倒産しないで安定して働けそうな就職先はどこ?」
「投票しても間違いなさそうな政党はどこ?」
こういった生活上の諸問題が、昔ながらの世俗的な感覚で対処することがだんだん難しくなってきたため、人々は自分に判断の基準を与えてくれるネット(=専門家システム)に、どっぷりと頼りがちになってしまった、ということなのだと思いますね(ネットの掲示板とかにはすごい賢そうな専門家っぽい人がいるんですよね・・)
自分の身近にいろいろ相談に乗ってくれる人がいれば、こんな風にネットに頼らずに済むと思うんですけど、私のように周りに話相手がいなかったり、コミュ障・ボッチ傾向が高かったりする人は、ネットに依存しまくって「価値観がクラウド化」しやすい傾向があるのかもしれません・・。
合理性を追求しまくる人々!
「価値観のクラウド化」が進んでしまうもう一つの要因、それは人々が「合理性」や「効率性」を追及しまくってしまう側面にあるのかもしれません。
私が「価値観のクラウド化」という名前を付けたとき、「シンクライアント」というシステムのことが、頭の片隅にありました。
「シンクライアント」とは、会社とかでよく導入されるシステムのことで、社員が使う「PC」を一元管理するための方法です。
「シンクライアント」のシステムでは、普段社員たちが使うPCは、アプリやデータを保存しない真っ白な状態でスタンバイしておいて、みんながいざ作業をするときに管理サーバーから必要な情報をダウンロードします。
この仕組みにすると、社員全員のPCを簡単に管理できたり、安いPCを使ってコストを抑えたり、セキュリティを守ることができたり、いろいろとご利益があるんです。
このシンクライアント・システムを人間に置き換えると、いったいどういう形になるでしょうか?
「シンクライアント人間」は、普段はなんの価値観も持たず、なんの理念も持たず、頭の中を真っ白な状態で生活します(それは何事にも煩わされないまるで仏教徒のような穏やかな境地です!)
そして、なにか判断が必要になったときに、スマホでサッとネットを参照して「価値観」をダウンロードし、それに準拠してアクションを起こします。
これなら世俗の人間にありがちな内面のめんどくさい葛藤もなく、煩悩や迷いにとらわれることもなく、とっても “ストレスレス” で “QOL” が高い “ウェルビーイング” な生活を送れるはずです。
重たい処理はみんなサーバー側にお任せするのでメモリもとっても快適で、自分の楽しみである「趣味の活動」などにもサクサクと身軽に専念できる利点もあります(あの有名なハンターハンターのヒソカも「メモリの無駄使いはよくない」と言ってましたよね)
目まぐるしく移り変わる流行のことも、人生のことも、政治のことも、みんな他の誰かに考えてもらえば「省エネ」で楽できるというものです。
「価値観のクラウド化」および「人間シンクライアント・システム」は、現代の忙しいピジネスパーソンに対して、とっても快適なソリューションを提供する仕組みであるといえます!こんな「合理的」な仕組み、使わない手はないですよね・・?(どうですかお客さん!)
ネット生権力による支配!
もし「価値観のクラウド化」とか「人間シンクライアント」といった仕組みを聞いたら、あの哲学者フーコーはきっとブチ切れてしまうと思います・・。
フーコーは近代の権力を「生権力」と呼んだ人です。
古き良き昔の権力は「逆らったら処刑するぞ!」といった「死を司る権力」でしたが、現代の権力は人々が「生」を営むための手助けをする権力(福祉・保険・教育とか)なのだそうです。
こういう権力は、非常に人々に気付かれにくく、用意周到かつ巧妙な方法で支配の体制を敷くため、非難の矛先が向きにくく打ち倒されにくい、なんとも厄介な権力なのだそうです。
「シンクライアント」なんていうものは、そもそも端末を合理的に管理するためのシステムですから、こんな仕組みに自らにはまり込んでしまう人は、権力者にたいして「どうぞ管理してください」と、首を差し出してしまっているようなものなんだと思いますね・・。
では現代の日本において、こういった「ネット生権力」を使って人々を管理・コントロールしている支配者というのは、いったい誰なのでしょうか?
一部の都市伝説によると「電通」や「自民党」といった組織には、ネットに特化した「サイバー広報部隊」のようなものが存在していて、人々を扇動するために日々暗躍しているという話です・・。
でも私の想像だと、おそらく彼らも人々をコントロールすることの難しさに、とっても手を焼いていて、いろいろ苦戦しているのではないでしょうか。
ネットの世界は広大なので、彼らのような一組織が操縦しようとしてもなかなか言う通りにはなってくれない、ネットというのはさながら、大海原を荒れ狂うリヴァイアサンのような、誰も制御できない暴れ馬的な存在なんだと思いますね・・。
統治者がいないネット管理社会!
ネットの世界を支配してるのは国や会社ではなく、もっと巨大で得体のしれない「何ものか」なんだと思います(ひょっとしてリヴァイアサンやベヒーモスよりもヤバいやつかもしれません・・)
哲学者フーコーは「我々の中には権力者によって埋め込まれた『内なる眼』が存在していて、その眼差しによって互いが自律的に監視しあうように訓練されている」と述べていました。
しかし、哲学者ボードリヤールは権力についてちょっと違った考察をしています。
ボードリヤールは、近代にはもはや「権力者」なんて存在していなくて、我々は「もぬけの空」となった架空の権力によって、支配されていると述べています。
我々の住む世界には、いたるところに漠然とした「権力者の眼差し」が存在しますが、その実体がどこにあるのか、その源泉がどこにあるのか誰にも分かりません(おそらくはどこにも存在しないのです・・)
すなわち私たちを支配してるのは、不在となった象徴的権力を埋めるために、我々自身の無意識が生み出した「幻想の権力」だということなんです。
こういう「空虚」で「形骸的」で「実体」がなく、もはや「目的」や「意味」さえも失った亡霊のような権力が、ただただ自己正当化を続けるだけの自動機械のように、我々を縛りつけ支配しているという話なんですね。
私はこの話を聞いて、攻殻機動隊の「スタンドアローン・コンプレックス」を思い出しました。人々が無意識的に創り出した「笑い男」という存在に感化されて、模倣的に犯罪を繰り返していくという現象ですね。
このアニメを作った人は、きっとボードリヤールの議論を聞いて、このアイデアを思いついたのかもしれませんね・・。
無意識の欲望はこわいんやで?
無意識から湧き出してくるものって、なんだか恐いものが多い気がするんですよね。だって無意識には、公共の場所ではとても表現できないような「攻撃性」「差別心」「ルサンチマン」「性欲」「死の欲動」みたいなものが、ぎっしりと抑圧されて埋蔵されているんですもん・・。
ネットの世界には、こういう人間の「負の欲望」みたいなものが、現実世界よりも表出されやすい傾向があると思います。
きっとネットの世界は人々の無意識を投影する「スクリーン」のような役割をしていて、ネット上で起きる様々な炎上事件というのは、人々の抑圧された暗い欲望が投影された深層心理の影絵芝居のようなものなのかもしれません・・。
こうしたネット社会で醸成される「亡霊のような権力」って、ちゃんとした手続きを経て生み出された(=超自我の検閲を受けた)権力よりも、もっと暴力的で危険な様相を帯びることが多いんじゃないでしょうか?
「みんなで同じようなファッションをしてしまう」くらいの現象だったら可愛いものですが、「みんなで徒党を組んで暴動を起こしてしまう」みたいな現象が起きてしまったら、ちょっと洒落になりませんからね(イスラムのテロリストたちは、ネットを駆使して欧米の貧困層の抑圧された若者たちを勧誘しまくっているそうですが、こういうのはマジで勘弁です・・)
神輿の中に宿る権力者!
以前精神科医の斎藤環さんが、お祭りの「神輿」について面白い話をしていました。
神輿というのは本来、担いでいる本人たちでさえどこに行くのか分からずに、フラフラと「酔歩(ランダムウォーク)」をしながら、当て所もなく進んでいくものなんだそうです。
みんなで「ワッショイワッショイ!」と元気よく掛け声をかけて担いでいるうちに、神輿の中に「神」が宿って、自然と行先を決めてくれるというわけなんですね(斎藤さんはこの仕組みを「こっくりさん」のようだと表現していました)
ネット民たちを統括する「価値観のクラウドサーバー」の中にも、きっと祭りの神輿と同じように「超越的な何か(権力者)」が宿っていて、そいつが我々が進むべき未来を決めているのだと思います。
その「超越的な何か」というのがいったい神なのか悪魔なのか、それは私たちの「無意識の欲望」にかかっているというわけです・・。
みんなで「ワッショイワッショイ!」と仲良くネットを利用していれば、ネット界の神の座に人々に祝福をもたらす「善い神様」が降臨して、我々を導いてくれるかもしれません。
みんなもネットの世界に「善い神様」に宿ってもらえるように、悪いこととか考えずにピュアな気持ちでネット生活を送りましょうね・・(´・ω・`)
(上手くいけばその「神」はとっておきのエロ画像とかをうpしてくれるかもしれませんよ・・?)
まとめ!
以上、「価値観のクラウド化」についていろいろ考察をしてみましたが、いかがでしたでしょうか?
昔ながらの世俗的感覚(ルーティーン)を失った人々が、新たな行動規範を求めてネットを参照し、みんなでハンコで押したように同じ行動をとってしまう、というなんとも不思議なお話でした・・。
この現象は、ある意味「グローバル化」が進むことによって、社会が一律に普遍化(フラット化)してしまうことの一例と考えることもできそうですね(インターネットはグローバル化を推し進める強力なツールですから・・)
こうして「普遍化」が進むと、当然それに対する「反動」というのも起きてくると思います。
世の中にあまりにハンコで押したように「お揃い」の人々が増えてくると、「みんなと同じじゃ嫌だ!」と周囲とは一味違う個性的な自分を演出したい人なんかもでてくるはずです。こんな風に「普遍性」に対して「独自性」を打ち出してく動き、これが世にいう「グローバル化」に対抗する「グローカル化」という現象なんじゃないでしょうか。
自分の中に「他人と一緒じゃ嫌だ!」「ココだけはこだわりたい!」という特別なポイントがある場合は、個性を発揮できるように自己開発のための力をいっぱい注いで、どうでもいいと思っているポイントには「まぁ適当でいいか・・」と力を抜いて他の人に合わせたりするのが、現代流のうまい生き方なのかもしれません(例えばファッションだけはしっかり個性を主張するけども、選挙とかはどうでもいいからみんなと同じでいいや、みたいな感じですね・・)
目まぐるしく移り変わる世界の状況をしっかり観察しながら、上手に自分のアイデンティティをデザインして生きていくこと、これをギデンズは「自己の再帰的プロジェクト」と呼んだのではないでしょうか。自分のアイデンティティをデザインしなくちゃいけないなんて、なんだか恐ろしい時代になりましたね・・。