大規模な事故や災害に対して判断力を失ってしまう心理バイアスとは!

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psychicnumbing
photo by _Gavroche_

人間は大規模な事故や災害といった自分の想像を超える出来事に直面したとき、正常な判断力を失ってしまう傾向があるようです。

2011年に大震災があった日、私はテレビで街が巨大な津波に飲まれていく様子を見ていて、なんだか現実感を失ったような感覚にとらわれた記憶があります。「これは本当に現実に起きてる出来事なんだろうか・・?」と、呆然とするような感覚です。

このような感覚について、オレゴン大学の心理学者ポール・スロビック教授が考察をしています。以下はポール・スロビック教授が語る、人間が大規模な事故や災害を目の当たりにしたときに陥る心理状態についての特徴です。

「サイキック・ナミング」とは?

我々はたった一人の死は「悲劇」ととらえることができます。しかし、数万人もの多くの人々の死については「ただの統計的な出来事」としてしかとらえられません。人はあまりに大きな犠牲者の数を提示されると、犠牲者の苦しみにたいする共感の気持ちが低下する傾向があるのです。

1950年、精神科医ロバート・J・リフトンは、広島と長崎の原子力爆弾の被害者について研究をしました。彼は、原爆の被害者が「サイキック・ナミング(psychic numbing)」という一種の心理的麻痺状態に陥ることで、心的外傷から自分を守っていることを発見しました。

心理学者たちはリフトンの発見に注目し、我々が大規模な事故や災害、多数の困窮する難民の情報などに直面したとき、どのように反応するかを研究しました。

その結果、我々は大規模な出来事が起きたときに、そのことを抽象的・統計的にとらえてしまい、その実体を思い描き、共感的に理解することが困難になる傾向があることが分かってきました。

被害が大きすぎると共感力が鈍磨する!

人はいったいどれほど大きな数字に直面すると、共感的な想像が困難になってしまうのでしょうか。

最近起きた、シリア難民の男児がトルコ沖で亡くなった事故のことを考えてみましょう。海岸に打ち上げられた男の子の画像は遠くアメリカにまでシェアされ、難民政策に関する人々の意識に大きな変化を与えました。しかしその翌日、14人ものシリア人の子どもがエーゲ海で溺死する事故がありました。あなたはこのニュースに気づきましたでしょうか?

「14」という数字でさえ、我々の感覚を鈍磨させるには十分な数です。

去年、我々が科学雑誌「PLOS ONE」に投稿した実験によると、犠牲者が一人である出来事がわずか二人に増えただけで、「想像力の鈍磨」が発生し得ることが分かりました。

この実験の参加者は、二つのグループの子どもたちに寄付をするように呼びかけられます。あるグループはたった一人の貧しい子どもが、もう片方のグループは二人の貧しい子どもが所属しています。参加者の寄付に対する気持ちは、グループの子どもが一人だけの場合よりも二人いる場合に大きく減少し、実際に寄付の金額も少額になるという傾向がありました。

「シュードインエフェカシー」とは?

「サイキックナミング」に加えて、もう一つの心理的効果があります。それは「シュードインエフェカシー(仮想的な不能感)」と呼ばれるものです。この効果は、我々が「Frontiers in Psychology」に投稿した、人々の慈善寄付に関する研究で確認されたものです。

この実験では、参加者は困窮してる人に対して寄付を行うよう求められます。このとき、「困窮している人がもう一人いるけども彼は助けることができない」という情報を知らされると、参加者の寄付のモチベーションは減少し、また寄付に対する満足感も減少することが分かりました。

また同様に、「困窮してる人々は他にも多数いて、この寄付は大規模な援助活動の一部である」という情報を聞かされたときにも、参加者のモチベーションは低下しました。人はあまりに多数の援助が必要な状況にせまられると、自分の行う援助が「スズメの涙」ほどの効果しかないのではないかと、無力感を募らせてしまう傾向があるのです。

どうも我々の心理は、主に一人の人間を助けるために協力しあうように作られているようです。そして、助けを求める人が他にも救いきれないほど存在することが分かったとき、我々は協力しあう動機さえ失ってしまうのです。

「プロミネンス効果」とは?

さらに、我々には「プロミネンス効果」という心理効果も働いています。

「プロミネンス効果」によると、人々は抽象的なものごとよりも、実際に目に見える具体的なものごとに正当性を与える傾向があります。たとえそれが、本来の我々の価値観から外れていたとしてもです。

例えば、大規模な集団虐殺や人権侵害が発生している場面で、しばしば善良な心を持っているはずの人々や政府が、それに介入せずに見過ごしてしまうことがあります。

人にはそういった場面で、世界規模の出来事への取り組みよりも、身近な生活の問題・短期的に解決できる問題の方を優先して選んでしまう傾向があるのです。

特に出来事の規模が、種族全体・生息圏全体・惑星レベルといった、我々の実生活から離れて抽象的になるにつれて、この傾向は顕著になります。

心理バイアスを克服せよ!

我々は「サイキックナミング」「シュードインエフェカシー」「プロミネンス効果」といった心理効果に左右されて、正しい判断を見失うことがないように注意を払うべきです。

そうすれば、複雑で混沌とした世界の出来事に向かい合ったときに、より正しい判断ができるようになるはずです。

また、環境問題やテロの攻撃、大規模な難民問題などに取り組む際には、数字の大きさに惑わされて相手に寄り添う共感的な気持ちが麻痺していないか考えるべきです。

そうすれば、我々は世界規模の問題への解決に向けて、より良い決定ができるようになるはずです。

まとめ

以上、ポール・スロビック教授のお言葉でした!

人間にはあまりに大きな出来事に直面すると、様々な心のパイアスにとらわれて正しい判断ができなくなってしまうことがあるのですね。とても勉強になるお話でした。

いったい、我々がこういった心理バイアスにとらわれないためにはどうしたらいいのでしょうかね。何か良い方法はないのでしょうか・・。

私が思うに、上記のような心理的状況は、個人がたった一人で直接メディアと向かいあってしまうときに起きやすい気がします。PCやスマホを介して、部屋の中で世界と自分が一対一で対峙してしまうような状況、そんなときに、世の中の問題に働きかける効力感を失ったり、問題から目を逸らして目先のことに没入してしまったり、そういった視野狭窄な思考に陥ったりしがちな気がします。

世界の問題を個人が受け止めずに、大勢の人々と議論しあいながらみんなの問題として受け止める、そうした中で、世界へ共感する気持ちや、政治的な効力感、バランスのとれた判断力が育まれるのではないでしょうか。

しかし、ここで往々にして起こりうるのが、大勢の人々が一斉に間違った方向に突き進んで行ってしまう「集団思考」の状態、これにならないように気をつけなくてはいけません・・。人々が議論しあう中で「集合知」が発揮されるか「集団浅慮」が発揮されるか、この境界はどこにあるのでしょうか。こういった問題について語っている論文があれば、また紹介したいと思います・・。


参考サイト・参考文献:
参考「The Arithmetic of Compassion」

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