最近ブログの更新が滞ってる気がするので、ちょっとした小ネタを書きたいと思います・・。
みなさん「飯漫画」ってご存じでしょうか・・!?
「孤独のグルメ」とか「花のズボラ飯」とか「ワカコ酒」とか「野原ひろし・昼メシの流儀」みたいな、主人公が毎回いろんな場所に出向いて、ひたすら美味しい料理を食べまくるだけの、なんだか不思議なジャンルの漫画です!
あの「飯漫画」が近頃とっても流行ってるらしいんです!
「飯漫画」ってなんだかとっても興味深いところがあります!主人公が黙々とご飯にパクついてるだけなのに、なんであんなに面白いんでしょうか・・?
いろんなブログで「飯漫画流行の秘密」について意見が述べられていますけども、私もその流れにいっちょ便乗して「飯漫画」について考察をしてみたいと思います・・!
飯漫画と相互受動性!
「飯漫画」を見ていると、わが師匠スラヴォイ・ジジェク氏のあの言葉を思い出します。
それは「相互受動性」という言葉です。
「相互受動性」とは、自分の「受動性」を他人に引き取ってもらって、代わりに感情的な体験を経験してもらうことを指します。「相互受動性」によって人は、自分が「何か」を受け止めなくてはいけない義務から解放されて、スッキリと自由の身になれるのだそうです・・。
なんだかよく意味が分かりませんよね・・?
ジジェク氏は「相互受動性」の一例として「泣き女」というものを挙げています。
「泣き女」とは、お葬式で泣くために雇われる女性のことです。喪主は「泣き女」にお金を払って葬儀場でワンワンと泣いてもらうことによって、自分が悲しみに浸らなくてはいけない義務から解放されて、「葬儀の段取り」や「金銭の勘定」といった、実務的な仕事に専念することができるのだそうです・・。
さらにジジェク氏は、もっと直球に「ポルノ動画」も「相互受動性」の一例であると述べています。
昨今の人々はもはや自らが夜の営みに励むことなく、ポルノ動画の登場人物たちが自分の代わりに性の悦びを享受する姿を眺めているだけで、十分に性的な満足に至ってしまうのだそうな・・。
自分の代わりに食べてくれる飯漫画!
「飯漫画」もある意味この「相互受動性」が発揮されている一例なのかもしれません。
最近私はちょっぴり体がぽっちゃり気味になってきていて、食を控えめにしなくてはいけない残念な身の上に置かれているのですが、そんな私が「飯漫画」の中で描かれている、いかにも美味しそうなご飯をモリモリと食べる食事シーンを眺めていると、なんだか自分の「食」への気持ちが一緒に満たされて浄化されていくような、そんな気持ちがしてきます・・。
「飯漫画」のキャラたちは、おデブへの心配が振り切れた純粋な食欲にもとづいて、一心不乱にご飯にパクついてくれます。おそらく今の私には、とてもあんな風に純粋な気持ちで食事に望むことなんてできません・・。
「相互受動性」の真髄は、自分が「それ」をしなくてもすむように、他人の「それ」を見ることにあります。
ひょっとして「飯漫画」の主人公たちは、私がご飯を食べなくても済むように、私に代わって一生懸命ご飯をモリモリと食べてくれているのかもしれません・・。
低刺激性の作品がウケる時代!?
「飯漫画」のもう一つの人気の秘密、それは「心をチクチク刺激しないこと」にあるのかもしれません。
最近私は心がちょっぴり「敏感肌」になってきてしまっていて、いろんな作品を鑑賞しているときになんだか心がチクチクと痛んできて、なかなかその世界に没入することができないことがあるんです・・。
恋愛系のイチャコラ漫画を見ると「ケッ、自分はどうせモテないよ・・!」とか、社会人がバリバリ働く働きマン系の漫画を見ると「ケッ、自分はどうせ無職だよ・・!」とか、そんな感じに自分の心のやわい部分に、情報がズキズキと突き刺さってきてしまうことがあるんですね(皆さんはそういうことありませんか・・?)
そんな中で「飯漫画」というジャンルの作品は、めんどくさい人間関係もなく、他人との競争もなく、ドロドロした痴情のもつれもなく、「主人公」が「飯」というオブジェクトと孤独に向かい合うだけの、シンプルかつノンストレスな漫画です。
最近の流行りのアニメでいうと「けものフレンズ」なんかも、この系統にあたる作品なのかもしれません。「わーいたのしー!」とか「すごーい!」とか、IQを一ケタ台くらいにまで落として楽しめるこういった作品が、今どきの「敏感肌」な人々にとって、きっと湯加減がいいんだと思いますね・・。
これからの時代、こういう「低刺激性」の作品がどんどん増えてくるかもしれません。
「動物をひたすらモフモフするだけ!」とか「お風呂に入ってフ~と温まるだけ!」とか「フカフカのお布団で寝まくるだけ!」とか「リンゴにペンを刺してアッポーペーン!」とか、そういった「ゆるふわIQ一ケタ台」で楽しめるトゲのない作品が、世の中で受け入れられていく傾向があるのではないかということです・・。