「いいね!」のされ方が不公平な理由!

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

iine
photo by Global Panorama

フェイスブックの「いいね!」ボタンとか、ツイッターのお気に入りボタンってありますよね。はてなのブクマボタンとかもあります。

ネット上で活動するハイパーメディアクリエイターな人たちは、ああいうボタンをとても気にしているようです。一生懸命作ったものに高評価をしてもらうと飛び上がって喜びますが、低評価をくらうとショックでお布団で寝込んでしまう・・。ソーシャルボタンの評価は、ネットで活動する方々の通信簿のようなものなのだと思います。

彼らがよく言っているのが「いいねのされ方が不公平!」ということです。自分的には快心の出来栄えだと思っていた作品が全く「いいね!」をされずに、ネットの海の中にひっそりと消え去ってしまう。一方、全然パッとしない他人の作品が滅茶苦茶「いいね!」をされることがある。「なんであいつばかり・・!ずるい!」ということです。

この格差は一体何によるものなのでしょうか。今回はこのことについて、じっくり考えてみました・・。

「傍観者効果」によって無視される!

「傍観者効果」という言葉があります。

例えば、駅前とかで具合が悪くて倒れている人がいるとします。普通だったら、介抱をしたり救急車を呼んだりするために、人が集まってくるはずです。しかし、ニュースとかでよく報じられる映像では、違うことが起きていたりします。通行人が倒れている人を「チラッ」と横目で見つつも、何事もなかったかのようにスタスタと横を通り過ぎてしまうのです。ニュース司会者の人は「都会人は冷たい人ばかり!」といって世の中を非難します。

このように、多くの人が集まった状況でなにか事件が起きていても、しかるべきアクションが行われずにスルーされてしまう現象、これが「傍観者効果」というやつです。

しかし、傍観者効果とは逆のことが起こることもあります。倒れてる人の周りに野次馬が集まり、その騒ぎを見つけてますます多数の人たちが集まり、人が人を呼んでやがて大きな人だかりが形成されるようなケースです。ちょっと転んで足を挫いただけなのに、やたらと人が集まってきて救急車まで呼んで貰ったりしたら、なんだか申し訳ないような、恥ずかしいような気持ちになってしまいそうですね。

「キャラ」と「空気」が注目を集める!

ネットにおける評価も、これと似たものがあると思います。

ある人が作ったとても出来の良い作品が「スッ」と人々からスルーされてしまうことがある、その一方、他の人が作ったなんだか残念な代物が評価を集めることがある。客観的に見ても前者の方が出来が良いはずなのに、なぜかこういうことが起きてしまいます。この不公平が生まれる原因は何か、私はそこに「キャラ」や「空気」といった要素が絡んでいると思います。

例えば、前章であげた駅前で倒れている人が、綺麗なお姉さんだった場合はどうでしょうか。ちょっと肩口がはだけてしまってるようなかっこで、「あの・・救急車を呼んでくれませんか・・」と潤んだ瞳でこちらを見ながら呼びかけてくるのです。男の人だったらそっこうで駆け寄ると思います。

また、小さな子どもが怪我をしてワンワン泣いている場合だったらどうでしょうか。これもまた強烈に印象的な場面なので、高確率で周囲の人が駆け寄ると思います。

道行く人の心を動かすためには、おそらく事態の重大さや緊急性よりも、むしろそこにいるキャラが強烈に何かを訴えかけ、何かを要請しているように見えることが重要な要素なのではないでしょうか。「助けを求めている」ということがキャラによって強烈に可視化されているとき、傍観者効果の壁を超えて人がアクションを起こす可能性がぐっと高まるのだと思います。

また、「キャラ」に加えてその場所に満ちている「空気」も重要な要素です。都会の雑踏・コンクリートジャングルの中で、ポツンと怪我人が座りこんでいるような状況では、なかなかその人に対して声がかけづらい空気があるのだと思います。

昔ながらの田舎のような牧歌的な環境では、もっと人と人がコミュニケーションを取りやすい空気があったのでしょう。しかし、都会の中では人と人の間に分厚い壁があり、互いに無関心な態度を取らなくてはいけないしきたりがあるのです。

テレビのニュースは「傍観者効果」の映像を報じることによって、社会の中の空気が冷たく、コミュニケーションを拒絶するようなものに変わってしまったことを教えてくれているのです。

「野菜の無人販売所」

もう少し例え話をします。

「野菜の無人販売所」、ここにもよく似た要素が見受けられると思います。よく田舎とかに置いてある、お客さんが勝手に野菜を持っていって、投げ銭のような形で料金を支払うあのシステムです。

私はああいう仕組みがよく成り立つものだと、ときどき関心してしまいます。だってこっそり野菜をパクッたとして誰からも咎められないはずなのに、みんな律儀にお金を支払っていくのですから。

あれも一種の「キャラ」や「空気」の効果が働いているように思えます。

あのボロボロの販売所の立て看板や張り紙を見ると、感じてしまうのです。ヨボヨボのじいちゃんが日曜大工で看板を作ったんだろうな・・。ヨボヨボのばあちゃんが張り紙を書いたのだろうな・・と。このじいちゃんとばあちゃんたちを前にしては、もはや野菜をパクる気概は完全に失われてしまいます。

また、こういった無人販売所が存在する田舎には、決して狼藉を働いてはいけない空気も存在すると思います。神社やお地蔵様、お天道様が見ている目の前で野菜をパクることなんてとんでもないといった、ある種の儀礼的な強制力が働いているのです。

都会では何でもありの北斗の拳のような乾いた空気が支配していますが、田舎では儀礼的・宗教的な空気感によって、ある種の規範的行動を促すプレッシャーのようなものが形成されているのだと思います。

ネットで評価されるためには!?

だいぶ話が飛びましたが、つまりネットで評価されるためには「キャラ」や「空気」が大事だということです。

たとえしょーもないコンテンツばかり発信している人でも、人々の感情に強烈に訴えかける「キャラ」があれば、多くの人に振り向いてもらうことができて、「いいね!」と評価してもらうことができるということです。

「可愛い容姿」「お洒落な雰囲気」「イケメンボイス」「ゆるふわ不思議ちゃんな言動」「知識人風の装い」「面白いことを言いそうなオーラ」こういう要素から醸し出される「キャラ」があってこそ、人々の評価の対象になり得るという話です。

オリコンランキングを席巻しているAKBの曲なんかには、こういった要素が多分にあると思います。AKBのファンが買っているのはもはや楽曲ではなくて、彼女たちの魅力的なキャラクターを買っている、曲はたんなる飾りにすぎない、偉い人たちはそれが分かっているのです。キャラが立っているということは、それだけコンテンツの売り込み合戦で優位に立つことができる。内容よりもむしろキャラの方が大事、そんな極端な状況さえ生まれ得るのです。

また、前章で「空気」も大事な要素だと説明しました。私の知り合いの話ですが、ツイッターであるサービスを発表したところ、非常に冷ややかな反応しかもらえなかったそうです。しかし、それを動画にしてニコニコで発表したら、大きな反響があって数万人もの人がサイトに押しかけてきました。たとえ同じ作品でも、それが発表される場所や空気によって、全く違う評価がなされるという一例です。ツイッターにはツイッターの空気感、ニコニコにはニコニコの空気感があって、それぞれ異なる価値観によって評価が下されているということです。ネットも一枚岩ではないということですね。

人々が強烈に「いいね!」と評価をしてくれる場所は、現在ネットの中で目まぐるしく移り変わっています。陳腐化して人々が白けきってる空気が支配している場所では、いくら良い作品を発表しても全然評価されないと思います。よく練りあげた自分の快心作は、人々が熱狂的な空気にとりつかれている「熱い」空間に投下してこそ、はじめて正当な(もしくはそれ以上の)評価が貰えるのではないでしょうか。ネット上で作品を発信するときは、その場所が持つ空気の性質をよく吟味するべきだと思います。

作品の「内容」もたしかに大事だと思いますが、発信者の持つ「キャラ」やそれを発表する「空気」も無視できない要素。現在のネット有名人たちは、このことを非常に念頭において行動していると思います。「内容の良さ」を追求する一方で、自分の「キャラ」を魅力的に作りこみ、そしてそれが評価される「空気」を持つ場所を捜し求める、そういったことを意識しながら、「いいね!」の収集家であるハイパーメディアクリエイターの方々は、日々活動をしているのです。

まとめ

以上、「キャラ」や「空気」がいかに大事かを述べてきましたが、しかし、世間にはこれらの風潮が行きすぎてしまったことへの反動も生まれつつあると思います。

基本的に、「キャラ」や「空気」に頼って集めた評価は、周囲の人たちの不公平感をかきたてるものだと思います。全然クオリティが高くない作品でも、その場の雰囲気や作者の愛嬌によってみんなから「いいね!」と評価されてしまうのですから、一部の人たちは「激おこ」になってしまうわけです。

最近、ネット上で有名人の炎上騒ぎが盛んに起きていますが、その根底にあるのは内容の良さを押しのけて「キャラ」や「空気」が最強のカードとなってしまった風潮へのバックラッシュ運動なのかもしれません。ネット上の人々は、一部の有名人たちが不当な(と思っている)方法で集めた価値を吐き出させようとして、バッシングを繰り広げているのではないでしょうか。「全然大したことしてないのに何であいつはあんなに稼いでいるんだ!」という理屈です。

以前、オタキングの岡田斗司夫さんが「評価資本」という面白い話をしていました。ソーシャルネットワークを通じて人々から集めた「評価」は、あたかも金銭のような価値を持ち、世界の中を流通するという考えです。社会学の「ソーシャルキャピタル」の概念をネット風にアレンジしたような、とても興味深い考えです。

現在の資本主義社会は、貧富の格差がどんどん開がり、階級間の対立がますます先鋭化し、希望が見えにくい一種のどん詰まりのような様相を呈しています。経済学者のトマ・ピケティが言っていましたが「r > g」となる世界。豊かなものはますます豊かになり、貧しいものはますます貧しくなる段階に突入しています。

岡田斗司夫さんが言う評価資本主義的な社会というものがあるならば、もはやこれと似たことが起きつつあるのではないでしょうか。有名人が一言何かをつぶやくとあっというまに何千・何万もの勢いでシェアされますが、無名な人はどれだけ頑張ってもパラパラッと数人にシェアされるのがやっとです。ネット上の評価は、もうコンテンツの良さによる一発逆転は難しい状況にある気がします。有名人の「おはよ~」という一言の拡散力には誰にもかないません。ネット上の評価の格差は広がるばかりなのです。

ネット上の「いいね!」が持つ価値が陳腐化しきって失墜したとき、いったい次はどんな価値が台頭してくるのでしょうか。またお金に原点回帰するのでしょうか、それとも別の新しい価値が生まれてくるのでしょうか。お金もなく、世間からの評価もない私にとって、よき世界が訪れてくれることを祈るのみです・・。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。