純粋な主体性

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このところモヤモヤと考えているんですけども、人間の「主体性」っていったいなんなんでしょうか・・?

最近私は自分がとっても「主体性」がない人間のような気がして、周りの人の言いなりになっているような、操り人形のように操られているような、自分が奪われてしまっているような不安な気分になってきて、なんだかあまりよく寝られないんですよね・・。

なので今回はちょっと「主体性」についてじっとり考えてみて、このモヤモヤを晴らしてみたいと思います・・。

「生活機能の外化」と「純粋な関係性」

「主体性」の話に入る前に、ちょっとアンソニー・ギデンズ氏の言っていた「生活機能の外化」と「純粋な関係性」についてお話ししたいと思います。

この話が、あとからちょっと役に立つんですよね・・。

「生活機能の外化」とは、従来「家庭」の中にあった生活の機能が、公共空間へ外化(アウトソーシング)されることを言います。

例えば、現代では「食事」は外食を利用すれば簡単に済ませられるようになり、「洗濯」はクリーニング屋さんが代わりにやってくれるようになり、「子育て」もある程度学校教育が面倒を見てくれるようになり、「性生活」などもポルノ産業を利用してサクッと処理できるようになり、といったような具合です。

そして「生活機能の外化」によって「家庭」が担う機能が小さくなってくるにつれて、家族同士の結びつきは「純粋な関係性」を拠り所にするようになります。「自分たちの生活のために」という実利的な目的から、より「精神的な心の結びつき」によって繋がる集団になってくるということです。

「純粋な関係性」によって結ばれた家族は、とても固い絆で結ばれた理想的な関係にあるのかもしれませんが、しかし世の中なかなかうまくいきません。

「純粋な関係性」はあまりにプラトニックで崇高な概念なので、それをうまく実現できずに失敗してしまう人たちもたくさんいるということです。

なので「生活機能の外化」が進んだ都市部では、結婚率が低かったり、離婚率が高かったり、出生率が低かったり、「家族」という単位が崩壊しやすい傾向を持ちやすいのだそうな・・。

価値観の外化・感情の外化!

実はこの「外化(アウトソーシング)」は、人間の「生活世界」だけではなくて「内面世界」においても起きてると思います。

以前「価値観のクラウド化」というブログを書きましたけども、あれこそは「自分で価値判断する」作業を外に仮託して、ネット上の意見集団にアウトソーシングしている状態なのだと思います。

情報網が発達するにつれて「スタンドアロン」のコンピュータが進化して、ネットワークと連動した「シンクライアント端末」になったように、人間も自分の内面をより軽量化・より高効率化するために、「価値観」をクラウド上からダウンロードするようになったということです・・。

さらに以前書いた「飯漫画」についてのブログです。

あそこに書かれた、スラヴォイ・ジジェク氏の言う「相互受動性」という概念は、まさに「感情のアウトソーシング」のことを指しているのだと思います。

ジジェク氏は、お葬式で泣いてもらう「泣き女」という存在は、自分が悲しみに浸ることを他人に仮託するためにあるのだと言っています。

またジジェク氏によると、「劇場(コロス)」でみんなで芝居を楽しんでいるときも、これと同じことが起きているそうです。「劇場」の中で観客たちが泣いたり笑ったりしているとき、その感情は自分たちから「コロス」に引き渡されて、「コロス」全体が自分たちの代わりに健全な感情を体験してくれているのだそうです。

我々は「コロス」に明け渡した自分の感情を、手放しの状態で眺めて楽しんでいるのだということです・・。

お金で買う普通!

我々が自分の内面を「外化(アウトソーシング)」するようになったのは、一つは七面倒くさいことを避けて、生活の効率化を図るためなのかもしれません。

ややこしくて悩ましい「感情的なこと」に出来るだけ関わらずに、その労力をもっと実利的なこと(仕事)に向けるためです(よくジジェク氏もこういう説明をしています・・)

しかしもう一つ考えられるのは、ひょっとして我々は自分の「価値判断」や「感情の働き」が誤作動しまうことに、なにか根源的な不安を抱いているのではないかということです。

「みんなと意見が違ったらどうしよう・・」とか、「自分の感情の働きが変だったらどうしよう・・」とか、みんな心の底でそういった「被異質視不安」のような感覚を抱いている可能性があるということです。

「何が普通」なのか分からなくなってしまったこの時代、みんな「普通」を求めています。その需要に応える形で「普通の型番」は、公共空間のマーケットを通じて調達されるようになったのです。

これによって、我々はお金を払うことで「みんな同じでみんなイイ!」と「被異質視不安」から逃れることができるのです・・。

純粋な主体性!

人間の「生活の機能」が外化されるにつれて「人間関係」がより純粋なものになったように、人間の「内面の機能」が外化されるにつれて「主体性」もより純粋なものになるのかもしれません。

その昔「攻殻機動隊」という漫画がありましたが、あの主人公「草薙素子」は、身体のほとんどがサイボークでてきていて、生身の部分は頭蓋に残ったほんの一部の脳組織だけなのだそうです。

そして草薙素子は「自分って一体なんなんだろう・・?」と作品の中で問い続けます。自分の身体機能が「義体」によって外化されていくにつれて、「自分という存在の根拠」に対する問いかけが、よりシビアなものになってくるということです。

現代人も同様に、自分の「内面」が外化されるにつれて、自分の「主体性」に対してより確からしさを求めるようになるのかもしれません。

自分の「価値判断」や「感情」といった内面の働きを他所に明け渡すようになったために、「ひょっとして自分は操られているのでは・・?」とか「本当の自分とはいったい・・?」みたいに「自分の主体性」に対して厳しい問いかけがなされるようになるのです。

「自分の主体性」の在り処に悩む人々は、ある人は「意識高い系」となって自分探しにインドへ旅立っていったり、ある人は「主体性?なにそれおいしいの?」みたいに「ゆるふわ動物化フレンズ」と化して主体性に対する問いから距離を置いたり、いろんな方法をもって「自分の存在の確からしさ」を守ろうとしているのだと思います・・。

主体性=自己統制感覚!?

以上、延々と「現代人は主体性を奪われている!」みたいなお話しをしましたけども、しかしこれっていったい本当なんでしょうか・・?

ちゃぶ台返しをするようで申し訳ないのですが、よくよく考えてみると、なんだか昔の人たちだって現代人とあまり大差ない生活をしていたのではないだろうかと、そんな気がしてきます・・。

だって昔の人だって「偉い先生が言うんだから間違いねぇ!」みたいに価値判断を他人に委ねたりしていたはずですし、「あそこのご主人は(ヒソヒソ)・・」みたいに、村の井戸端会議ネットワークを通じて村人全体が感情的に一体となるような体験だってしていたはずです(これは劇場=コロスと同じ働きです)

しかし昔の人々は、「主体性の在り処」について現代人ほど思い悩んでいたようにはあまり見えません(これは「主体性」という考えが近代になって生まれたせいでもあるのかもしれませんが・・)

現代人と昔の人の違いを、攻殻機動隊の「草薙素子」に例えるとこういう感じになると思います。

現代人は「私の肉体はどこもかしこも義体に置き換えられてしまっている、自分とはいったい・・(困惑)」みたいに思い悩みまくっている状態であり、一方昔の人は「いや、義体だって自分の一部だし(それが何か?)」みたいに全然気にしてない様子であるということです。

これはいったいどういうことなんでしょうか・・?

ひょっとして「人間が主体的であるかどうか」ということは、単なる自分の中の「自己統制感覚(=自分をコントロールできている感覚)」によって決まるものなのかもしれません。

「自己統制感覚」は、自分の「内面」を明け渡す対象があたかも「自分の一部」であると思えれば保たれ、自分の「内面」を明け渡す対象が、まるで「自分と違う異物」だと感じられれば損なわれるのだということです。

つまり、結局人間はどこまでいっても外部から「内面」を奪われる存在であり、「主体性」が定立するかどうかは、自分がその「外部」のことをどう思っているか(自分の一部だと思えるか)に掛かっているということです。

そんな身も蓋もない説が、なんだか私の頭をよぎりつつあるのですが、みなさんどう思いますでしょうか・・。

主体性は境界に宿る!?

以前、私が「毎月500円」を払って視聴している「ビデオニュース・ドットコム」という番組で、内山節さんと宮台真司さんが「自己実現ってクソ!」という話をしていました。

最近流行っている「自己実現」というワードはなんだかうさん臭いもので、会社でバリバリ働きまくる兵隊社畜を養成したり、お金を落としまくる良き消費者を育てたりするための、「一部の人間たち」にとってずいぶん都合のよい概念になっているのではないかという話です。

二人のお話しでは、そもそも「実現すべき自己」というのは周囲の社会環境からの呼びかけに応じて、自然と立ち上がってくるものであり、「自分探し」などと言って自ら足を棒にして一生懸命探し回っている時点で、すでに何かが間違っているのだそうです。

この話はとっても興味深いです・・。

この線でいうと「主体性」の在り方というものも、本来「社会環境からの呼びかけ」に呼応して、自然に生まれてくる形が一番理想的な状態なのかもしれません。

自分を取り巻く環境が、主体性を育む様相のものならば主体性は萌芽し、主体性を阻む様相のものならば、主体性は剥奪されるということです(ようは社会設計が大事ということです)

ひょっとして「主体性」というのは「自分の側(内)」にあるのでもなければ「環境の側(外)」であるのでもない、「自分」と「外部」の「境界」に宿るものなのかもしれません(思えばフッサールの言っていた「間主観性」ってこういうことなのではないでしょうか)

そして「主体性がない」などといって一生懸命こんなブログを書いている時点で、私は「すでに何かが間違っている」のだということです・・。

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