「電車でお化粧するお姉さん」とはなんなのか?

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bride with a mirror
photo by mahmoud99725

最近ネット上で「電車でお化粧するお姉さん」が話題になってるみたいですねー!

先日東急電鉄が公開した「電車でお化粧する人はみっともない!」というマナー広告が話題になって、SNS上ではこの広告に対して賛否両論たくさんの意見が寄せられているようです。

私も通勤電車とかでときどき「お化粧をするお姉さん」を見かけますけども、やっぱりあのお姉さんたちのことを気にしてる人たちがたくさんいたんですね・・。

一体「電車でお化粧するお姉さん」とはなにものなんでしょうか?彼女たちは我々にとってどういう存在なんでしょうかね・・?

今回は「電車でお化粧するお姉さん」について、私がモヤモヤ考えたことをお話ししたいと思います・・。

電車でお化粧するお姉さん=疲れてるお姉さん?

電車の中でお化粧をするお姉さんって、ひょっとしてとっても仕事に疲れてる人が多いんじゃないかと思うんですよね。

私も以前会社で働いていたときは、毎日遅くまで仕事仕事で、帰るのが夜中頃になってりしていて、いつも睡眠不足で電車の中でグーグーと眠りこけていた記憶があります(ときどき終電を寝過ごして帰れなくなったこともありました・・)

働きづくめで時間に追われていると、生活のいろんなとこを切り詰めて、睡眠時間を稼ごうとしちゃうんですよね。「お風呂に入らなければ30分浮くなー」とか「歯を磨かなければ10分浮くなー」とか、毎日ちょっとずつ節約をして時間を捻出しようとするんです(なんだか不潔な人間ですね・・)

生活にもっとゆとりがあれば、電車でお化粧なんかしなくても良くなると思うんですけど、こういう風に時間に追われて忙しそうなお姉さんを見ると、なんだか世知辛い世の中になったなーと、鬱々とした気分になってしまいますね・・。

電車内は「儀礼的無関心」の空間!

以前もブログでちょっぴり紹介しましたが、電車内は「儀礼的無関心」という作法が支配する空間です。

赤の他人同士がギュウギュウ詰めになる息苦しい空間では、互いの「パーソナルスペース」を侵害して不愉快な思いをしないように、他人をあたかも「柱や壁」のような「ただの物体」とみなして、あまりジロジロと注目しないようにするという作法があるのです。

都会の満員電車には、他人への視線や距離感に細かな注意を払わなくてはいけない、とっても厳しい公共マナーが存在するんですね(ある社会学の論文ではこのマナーのことを「まなざしの体制」と呼んでいました)

人々は他人に対して「まなざし」を向けないように、新聞を読んだり、スマホを見たり、寝たふりをしたり、様々な「自閉的空間」を作ろうとします。

電車内で外界に目を向けずに何かに没入するによって、周囲に自分を包み込む「カプセル」を作って、相手をシャットアウトしようとするんです。

物理的にはギュウギュウ詰めなので、せめて「心理的なカプセル」を設けて、互いの間に壁を築こうとするんですね・・。

ネタがベタになった車内空間!

電車内の「儀礼的無関心」とは、本当は相手への関心があることの裏返しであるといえます。

儀礼的無関心とは、相手をジロジロと注目すると失礼なので「あえて」無関心を装っているという態度なんです(その無関心の前提にはちゃんと「相手への配慮」が存在するということです)

世の中にはしばしば、こういう「あえて」の態度があまりに習慣的になると、その前提となる条件が消え去ってしまうことがあると思います。

例えば、私がよく例に出すご飯の前の「いただきます!」という行為、この行為はもはや「感謝の言葉」というよりは、自動的に口をついて出る呪文のような存在と化しています。

こんな風にあまりに繰り返し「その行為」を行ってると、そもそもの意味を忘れてしまって、自動機械のように形式だけで「それ」を行なってしまうようになる。

つまり、電車内の「儀礼的無関心」がいつしか「本当の無関心」に変わってしまう瞬間が、訪れる可能性があるということです(俗にいう「ネタがベタになる」という現象とよく似ていますね・・)

電車でお化粧をするお姉さんというのは、ある意味「儀礼的無関心」が「本当の無関心」に変わってしまった、次世代のニュータイプ的な存在という位置づけができそうです。

お姉さんは周囲の人に対して「本当に無関心」なので、相手も自分に対して「無関心」だと思っていて、お化粧をしてもきっと誰の目にも留まらないと、考えてしまっているのではないでしょうか(でも実は周りの人たちはお姉さんにしっかりと注目しているんですね・・)

時代とともに変わる公共マナー!

大昔に「ウォークマン」が発売された頃、電車内で音楽を聴く若者たちが議論の的になったことがあるそうです。

「音楽は家で聴くものだから、それをチャラチャラと電車の中で聴くなんてけしからん!」と年配の人たちからお叱りの声があがったのだそうな。

しかし今となっては、電車でミュージックプレイヤーで音楽を聴くのは当たり前の行為になっています。こんな風に公共のマナーって、時代とともにどんどん変わっていくものなんだと思いますね。

もしかしたら電車内でお化粧をすることも、時が経つとそのうち当たり前の行為になるのかもしれません。

現時点ではなんだかマナー違反に感じられるような行為も、みんながやるようになれば、ごく自然な形で「OK」という空気になり得るんだと思います。

今は「人前でお化粧をする」という行為がマナー的にOKなのかNGなのか、人々の間で言い争いあってる過渡期のような状態なんだと思いますね・・。

根底にあるのは道徳感情!

電車の中で他人がお化粧をする行為が気にかかるのって、人々の「道徳感情」が働いてるからなんだと思います。

周りにお粉が飛んでしまうからとか、香水の匂いがしてしまうからとか、そういう実際的な理由よりはむしろ、「公共空間」で「道徳」が破られる行為(=社会的コードの逸脱)に対して、人々は感情的不協和を抱いてしまうということです。

電車内の「まなざしの体制」に違反した逸脱者には、ルールに背いた罰としてみんなから「冷たいまなざし」が向けられてしまうということなんですね・・。

私は「道徳感情」がとっても薄い人間で、「社会的コード」とかもとっても読めないタイプなので、世間と感覚がズレていてよく困ってしまうことがあります・・。

目の前でお姉さんがお化粧をしていても、横でお兄さんがケータイで話していても、おじさんが「性の悦びを知りやがって!」と独り言をつぶやいていても、私自身は全然気にならなくて、みんなが何を気にかけているのかよく分からないことがときどきあります・・。

「道徳感情」や「社会的コード」って、人それぞれかなり違っていて、年代とか性別とか地域によって、とっても差があるものなんだと思いますね。特に最近はこういった文化的な「共通認識」や「暗黙の前提」みたいなものが持つ普遍性が、どんどん薄くなっていく傾向があるように思えます。

自分自身が気にならないことは、周囲の人々も気にならないと思い込んでしまって、知らず知らずのうちにマナー違反なことをしてしまう、公共の場所では最近こういうことが起きがちなので、よく注意をした方がよさそうですね(私みたいに世間とズレている人間は特に要注意です・・)

アスペルガー化する社会!

最近私みたいな世間とズレた、空気読めない系のタイプの人が増えてきてるみたいです。

以前、批評家の志紀島啓さんと精神医学者の松本卓也さんが、「アスペルガー化する社会」という、耳の痛い話をしていました・・。

志紀島さんと松本さんによると、2000年の初めくらいから、世の中にアスペルガー的・発達障害的な人が、たくさん見受けられるようになってきたのだそうです。

アスペルガー的な人の特徴としては、
「コミュニケーションが取れない」
「場の空気が読めない」
「他人の感情が理解できない」
「融通が利かない」
といったものがあるそうです(なんだか踏んだり蹴ったりですね・・)

また、アスペルガー的な時代の特徴としては、
「リアルなものの裏打ちがない合理性」
「コンピューターではじき出したような血の通ってない理屈」
「言ってることはたしかに正しいのだけれども何かがおかしい判断」
「そのことが可能になる『手前の問い』が問われないまま言説が流通する」
といった雰囲気が感じられるそうです(ようはとっても浅薄ということなんでしょうか・・?)

アスペ気味な人って、共感能力を働かせるのが苦手で、他人と違ったコードを持っているため、周囲とズレた行動をとって白い目で見られてしまうことが多くて、いろいろ辛いんですよね・・。

電車でお化粧するお姉さんくらいなら可愛いもので、世の中には駅員さんを怒鳴りつけてしまうおじさんとか、車内に座り込む学生とか、線路に立ち入ってしまう若者とか、もっと過激な行動をする人たちも増えてきているそうです。

最近電車の中で奇妙な行動をする人たちが増えているのも、もしかしたら「アスペルガー化する社会」が関係しているのかもしれません・・。

共感能力は二種類ある!

以前精神科医の人が言っていたのですが、人間には二種類の共感能力があるそうです。

一つは「情動的な共感能力」
これは読んで字のごとく、相手の仕草や表情・声色を見て、感情を心に写し取って理解する能力のことです。

もう一つは「社会的洞察による共感能力」
これは、相手の置かれてる状況を推測したり、人間の行動パターンを知識として知っていて、それらを使って洞察する形で感情を読みとる能力のことです。

一般に女性は「情動的な共感能力」に長けていて、経験豊富な男性は「社会的洞察による共感能力」に長けている傾向があるそうです。

アスペ気味な人は「情動的な共感」が苦手な人が多いと思いますので、「社会的洞察による共感」の方を磨けば、社会でうまくやっていけそうな気がします。

世間とズレている私が電車の中でなんとかちゃんとしていられるのも、たぶん公共の人たちが自分を見てどういう感じ方をするのか、知識として理解しているためなんだと思います(実は知らず知らずのうちに粗相をして白い目で見られてるのかもしれませんが・・)

電車でお化粧をするお姉さんたちも、自分が周囲の人からジロジロ見られていることを知識として理解すれば、もしかしてお化粧が恥ずかしく思うようになるのかもしれません・・。

あと過労気味で疲れていると、軽い失感情症のような形で共感能力が低下することがあるらしいので、働きマンのお姉さんたちはもっと仕事を減らして、ゆっくりと余暇を楽しんだ方がいいと思いますね。

そうすれば電車でお化粧なんかするよりも、ちゃんと家でお化粧をした方がいいって、思えるようになるかもしれませんから・・。

まとめ!

以上、「電車でお化粧をするお姉さん」についていろいろ考察してみましたが、いかがでしたでしょうか?

「電車でお化粧をするお姉さん」という問題は、90年代終わり~2000年代初めくらいから話題になり始めて、繰り返しネット上で取り沙汰されるある種の「定番ネタ」のような存在になってきました(今回も何度目かのブーム再燃というわけです)

社会学とか文化人類学の論文でもたくさんこのことが論じられていて、「電車でお化粧をするお姉さん」という問題の中には、なんだかとっても人の関心を引き付けてやまない「謎めいたなにか」があるように感じられます・・。

電車の中というのは、赤の他人たちが大挙して密集する異様な空間なので、「社会道徳」や「ジェンダーの問題」や「労働の問題」といった、人々のタブーが集約される、ある種の「特異点」のような空間と化しているのかもしれません。

きっと「お姉さんが電車で化粧をする」という一見なんでもないことを語らう言葉の中には、人々が社会的なもの・公共的なもの対して抑圧しているあやうい感情が、ごっそりと投影されているんじゃないでしょうかね・・。

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