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最近ちょっと不思議だなーと思って、ぼんやり考えてることがあるんです。
世の中の人たちがいろんなことを議論しているときに、なんだか「トンデモ理論?」みたいな、奇妙な理屈がポッと出てきて、しだいにそれが広まっていくことがある気がするんですよね。
あれっていったいなんなんだろうって、すごく気になっているんです・・。
ちょっと分かりにくい話だと思いますので、以下にいくつか例を挙げてみたいと思いますね・・。
目次
なんか変だと思った理論一覧!
■ケータイの電磁波はヤバい!
例えば、電車の中でよく車掌さんが「携帯をマナーモードにして通話はお控えください!」みたいなアナウンスを流していますよね。
基本的に、電車の中でペラペラとケータイでお喋りをすると周りの人に迷惑なので、「むやみにベルを鳴らさない」「話すんだったら降りてから」みたいなことが、世間一般のマナーになってると思います(私は電話の声とかあんまし気にならないんですけどもね・・)
そして、最近はあんまし聞かなくなった気がしますが、ケータイが世に出始めたころ「ケータイの電磁波はヤバい!」みたいな説が盛んに言われていた時期がありました。
「ケータイの電磁波が心臓のペースメーカーを誤作動させる」とか「ケータイの電磁波が皮膚ガンを誘発する」みたいなことを言って、電車でケータイを使わないように呼び掛けていた気がします。
あの電磁波の話って、なんだかウソだかホントだかよく分からない、ちょっとあやしい「トンデモ理論」なんじゃないかと、当時の私は薄っすら感じていた記憶があります(私は専門家じゃないので真偽の程はよく分からないのですが・・)
■タトゥー者の肝炎ウイルスがヤバい!
この前紹介した「サマーランドプール炎上事件」のときに、「タトゥーをしてる人はプールに入れるべきか否か!?」ということについて、SNSで猛烈な議論が巻き起こりました。
この議論がヒートアップしていく最中で、しだいに「タトゥーをしてる人は肝炎ウイルスの保有者が多いので浴場に入れるべきではない!」という説を言う人が現れ始めました。
私にはこの説がウソだかホントだかよく分からないのですが、「もしかしてこれはトンデモ系の言説ではないのかな?」、というあやしいオーラをほのかに感じ取ってしまったのです・・(私は専門家じゃないので真偽の程はよく分からないのですが・・)
■タバコの煙はヤバい!
タバコの煙がいかに身体に悪いかは、学校の保健の授業とかでたくさん習った記憶があります(肺が真っ黒になった写真とかをよく見せられました・・)
タバコの主流煙や副流煙が身体に悪いのは、おそらくトンデモ理論とかではなくて、科学的に立証されていることなのだと思います。
でも最新の嫌煙理論では「服に付いたタバコの粒子が毒なので着替えるべき!」とか、「喫煙者の呼吸に粒子が含まれてるので近寄らないように!」とか、なんだかちょっと雲行きがあやしい展開になってきてる気がします・・。
さらにタバコ好きの研究者の方からは「タバコはむしろ健康にいい!」みたいな説も唱えられているみたいで、なんだかタバコを取り巻く界隈全体に、ほんのり香ばしい香りが漂っている気がします・・(私は専門家じゃないので真偽の程はよく分からないのですが・・)
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以上、私がなんだか「あやしいな・・?」と思う説をいろいろ挙げてみましたが、どうでしょうか?(上記はいずれも「とっても激しい」議論の争点になっている話題なのでいろいろ異論がある人もいるかもしれません)
この中にはホントの説もウソの説もいろいろと入り混じってるのかもしれませんが、しかしこういったちょっぴり「はてなマーク」が浮かんでしまうような異説が唱えられる背景には、いったいどういうことがあるのでしょうか・・?
キーワードは「道徳感情」!
私が思うに、上記で挙げたケースで怒っている人たちは、いずれも「物理的・生理的な理由」で怒っているというよりは、むしろ相手の「マナー違反」に対して怒っている側面が強い気がします(そんな気がしませんでしょうか・・?)
例えば、電車内で電話をする人に怒っているのは「声がうるさい」からではなく、タトゥーをしている人がプールに入るのが嫌なのは「オラついていて恐い」からではなく、タバコをスパスパ吸う人に苛立ちを感じるのは「ケムい」からではないということです。
彼らが怒っているのは、本質的に相手が周囲の迷惑を顧みないで自分勝手な行動をしていることに、「道徳的な怒り」の感情が湧いてくるからなのだと思います。
人間はたいてい、自分に降りかかってきた迷惑には「自分が我慢すればいい」みたいにして許容することができますが、公共の秩序を乱すような「反社会的・反道徳的な行為」にはとっても怒りを感じる習性がある気がします。
「道徳的感情」の裏には必ず「処罰的感情」が存在するので、迷惑行為をする不届き者を目にすると、相手をこらしめて(処罰して)やりたい気持ちが湧いてくるんですね・・。
道徳感情は人によって違う!
以前テレビでダウンタウンの松本さんが、新幹線の中でギャン泣きしている赤ちゃんの話をしていました。
松本さんは、ワンワン泣いている赤ちゃんの声よりも、むしろそれをたしなめようとしない「親の態度」に腹が立つと言っていました。
それに対して古市憲寿さんは「赤ちゃんは自分と違う個体なんだから仕方がない!」と述べて「別に俺はそんなに腹立ないけど?」的なポジションの発言していました。
道徳感情って「世代」とか「文化」とか「考え方」とか、人それぞれが経験して会得してきたものによって、意外と違うものなんですよね(松本さんと古市さんは傍目から見てもけっこう違うタイプですものね・・)
こういう風に、個々人が持っている道徳観の違いや齟齬というのが、何かの取り決めをする際に意外と厄介な問題になるんだと思います・・。
道徳の起源は自覚できない!
ずっと前にテレビで「なんで人を殺しちゃいけないの?」と問いかけて、話題になった学生がいましたよね?
この発言を聞いた世間の多くの人々は、「とんでもない!」「けしからん!」「全く最近の若者は!」と感じたと思います。
しかし一方で「なんで人を殺しちゃいけないのか」という問いに、理路整然と歯切れよく答えることができなくて、なんだかもどかしい気持ちを感じた人も多いのではないでしょうか(私だけでしょうかね・・?)
基本的に「道徳的規範」の根拠は、とっても説明しにくいものなんだと思います。道徳感情の根底にあるものは「道徳は守るべきだから守るんだ!」という、なんだかトートロジーのような形をしていて、道徳の起源についてちゃんとビシっと説明できるのは、歴史・思想・哲学とかに精通した、一部のそうとうな強者だけなのだと思います。
(私は道徳がなんで説明しにくいのかは、人間の「超自我」の形成過程に原因がある気がするのですが、これはまた別の機会に話しますね・・)
世間の人々は、自分たちの安心な暮らしが、なんだか説明しにくいあやふやな「道徳」というものによって支えられていることに、心の底で漠然とした不安感を抱いているのではないでしょうか・・。
科学的根拠を求める欲望!
「道徳は守るべきだから守るもの」。道徳というのは一種の「イデオロギー」とみなすことができるのかもしれません。
そして、道徳を巡って人々が議論をする行為は、一種の「イデオロギー闘争」であると捉えることもできそうです。
ユルゲン・ハーバーマスという人は、現代は「合理的精神」が重んじられる時代であり、イデオロギー的なものに対しては「科学的根拠」による裏付けが不可欠である、と述べていました。
人々は自分たちが拠り所にする「倫理・道徳」といったものが、なんだかあやふやなものであることをとても気にしていて、しっかりとした「科学的裏付け」を求める気持ちを抱いているのかもしれません(ちゃんとした裏付けがあれば「相手陣営」を言い負かすこともできますしね)
しかし、ハーバーマスは合理的精神があまりに行き過ぎると、それ自体が人々を支配してしまって、本末転倒の「疎外」の形になりかねないと警鐘をならしていました。
そして、カールシュミットという人も、科学的根拠というものは政治によっていくらでも都合よく用意できるものなので、たいして信用できないものだ、と述べていました。
自分たちが信じる「道徳」があやふやなものであり、それを裏付ける「科学的根拠」もたいして信用できないものとなると、人々はいったい何を信じればいいんでしょうかね・・。
我々の住んでいる世界は、もはや何も信じられない混沌としたカオスな状態に突入してしまっているのかもしれません・・。
エビデンス妖怪とナラティブ妖怪!
ものごとに取り組むときに「エビデンス・ベースド」な方法と、「ナラティブ・ベースド」な方法というのがあります(精神医学とかでよく使われる概念です)
「エビデンス・ベースド」とは、科学的根拠に基づいて理性的・合理的な姿勢でものごとに取り組むことです。一方「ナラティブ・ベースド」とは、物語を語ることで人間に対して情緒的・対話的に働きかける取り組みです。
最近の意識高い系の人々の間では、この「エビデンス」と「ナラティブ」という対立軸がやたらと話題になっている気がします・・。
ところで話は変わりますけど「妖怪」って面白いですよね(いきなりすっ飛んでしまってすいません・・)
妖怪って、人々の理解を超えるような自然現象に説明を与えたり、子どもたちに教訓を与えたり、いろんな役割があるらしいんです。
例えば河童って、一見安全そうな浅瀬で水難事故が起きることを説明付けたり、あと子どもに「川には河童がいるから気をつけなさい!」と注意を促したりするために創られたという説があるそうです。
「お尻の玉を抜き取るとか「相撲が得意」とか意味不明な設定も付けられていて、なんだか河童ってすごい「ナラティブ」な存在だと思います。
一方「エビデンス・ベースド」な妖怪というも存在し得ると思います。人々がなんだか理屈を付けられないモヤモヤした気持ちを合理化するために、そして、子どもたちに道徳的教訓を与えるために創り出される、奇怪な存在のことです。
なんとなくもう分かりますよね・・。
そうです、冒頭で挙げたような「トンデモ理論」は、人々が抱いているモヤモヤした道徳的な感情に、なんとか科学的根拠を与えようとして創り出した「エビデンス妖怪」だということです・・。
・「河童」が「水に引きずり込む」ので「川に入ってはいけない」
・「○○大学の教授」によると「タバコは洋服に付いた粒子でさえ有害」なので「絶対吸ってはいけない」
妖怪はこんな感じで人々に道徳的教訓?を与えてくれる、大切な存在なんですね。いや~妖怪ってほんとに素晴らしいですね!
まとめ!
以上、私がトンデモ理論についてモヤモヤと考えていたことを書き散らしてみましたが、いかがでしたでしょうか?
めっちゃ長い文章ですが、分かりやすく要約すると、
・人は道徳に反する行為をしてる人に怒りを感じる
↓
・相手も反論してきて対立関係になる
↓
・相手を説得したいけど道徳の根拠をうまく説明できない
↓
・科学的な理由を無理やりひねり出す
↓
・トンデモ理論の完成!
となってしまいがちな流れが、世の中にあるということです・・。
トンデモ理論のことを「エビデンス妖怪」だといいましたが、理屈が通ってない話をエビデンスと呼ぶことに抵抗があるのだとしたら、トンデモ理論は「エビデンスの皮を被ったナラティブ」だと呼んでもいいのかもしれません。
道徳の本質は感情にあるので、「エビデンス」に基づいた表現をしようとして、どうしても「ナラティブ」になってしまう傾向があるだと思います。
道徳を理性的に語るのは、本当に難しいことなんだと思いますね・・。
コメント
タトゥーと肝炎の繋がりは 多分正しいと思いますが プール/温泉の利用制限とは関係ないと感じますね。