有名人ばっか得してずるい!ネット炎上贈与論!

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zouyo

最近私はKpopにハマってるんですけど、Kpopってなんだかすごいですよね。

だって新しい曲がリリースされると必ずYoutubeに動画がアップロードされて、最新アルバムがいくらでも聴き放題なんですもん・・。

ほんとはお金を払わないと聴けないはずのアルバムが、ネットでポチっと再生ボタンを押すだけで聴けてしまうなんて、なんだか恐ろしい時代になったものです・・。

贈り物には贈与の霊がとりついている!

こんなにネット上で娯楽コンテンツが無料で見放題な状況になると、なんだかときどき申し訳ない気持ちになってきてしまいます・・。

私が子どもの頃なんかは、よくお小遣いをためて音楽CDとかを買っていたんですけど、最近はめっきり音楽にお金を使うこともなくなってしまいました(映画とかは時々観に行ったりするんですけどね・・)

こんなに「モノ」を与えられっぱなしで、なんだか後ろめたくなってきてしまう気持ち、こんな気持ちを文化人類学者のマルセル・モースは、マオリ族の「贈与の霊」という概念を使って説明していました。

モースによると、人が与える「贈り物(贈与)」には「贈与の霊」が宿っていて、贈り物を受け取った人はその霊の存在に「負い目」にも似た感情を抱くのだそうです。

「贈与の霊」はそのまま放っておくといろいろと悪さをしでかすので、贈り物を受け取った人は、必ず近いうちに相手に何か「お返し」をして、その霊を送り返さなくてはいけないのだそうな。

プレゼントをもらったらちゃんとお返しをすること。

マオリ族の風習には世の中を支える経済活動の原型があって、人々の暮らしはこうした「贈与」と「返礼」の交換関係から成り立っている、ということをモースは言いたかったんですね・・。

ネットの贈与は純粋贈与!

ネットの世界の「贈与」って、基本的に「純粋贈与」の性格を帯びやすいんだと思います。

「純粋贈与」というのは、相手に喜んでもらいたい一心で行う、見返りを求めないとってもピュアな贈与のことです。

ネットからもらう贈与はさながら山で山菜をとったり、川で水で汲んだりするような、「大自然からの恵み」みたいなイメージがあります(私だけですかねこの感覚?)

「純粋贈与」というのはたいてい相手に「お返し」を行うすべがありません。純粋贈与を行う人というのはお返しの窓口さえ設けない、とっても謙虚な神様のような人なんです(なので「この世には純粋贈与なんてありえない!」と言ってる学者もいます)

ネットの中には自分の宣伝のために作品を公開してる人とか、勝手に自分の作品をアップロードされてしまった可哀想な人とかもいると思いますけども、多くの場合、彼らも結局「純粋贈与」をしてることになるんだと思います(だって大抵お返しなんて何も返ってこなくてガッカリすることになりますからね、ネットでものを公開するとはそういうものです・・)

太古の時代から人が「大自然の恵み」に対して返礼を行うときは、神社を立てたり祭祀を行ったりしてお祈りをしていましたが、「ネットの恵み」に返礼をする場合はどうしたらいいんでしょうかね?

「ネット神社」みたいのを建立して、みんなでお祈りをすればよいのでしょうか・・?

贈与の霊を浄化する方法!

ネットから受け取りっぱなしの私も、実はちょっぴり「お返し」をしたことがあります。

この前、Wikipediaのサイトであまりにも「募金のお願い」がしつこくポップアップ表示されるので、「まぁ、いつもお世話になってるしな・・」と思って、500円を募金したんです(どうです!えらいでしょ!)

常日頃、Wikipediaをはじめとして、大学の論文データベースとか、ネット上の賢そうな人のブログとか、いろんなサイトで調べごとをさせてもらっているので、感謝の気持ちを込めて500円という大金を気前よく出費したというわけです。

これで私の背中にずっしりと憑りついている膨大な「贈与の霊」たちも、少しは成仏してくれたでしょうか・・?

ネットに蔓延る不公平!

しかし今になって思うのですが、これってちょっぴりおかしな話じゃないでしょうか?

だって「論文を書いた大学の人」とか、「個人ブログを書いた人」とかは何もご褒美をもらうことがなくて、「Wikipedia」ばっかが500円得してることになるんですもん。なんだか不公平な気がしませんでしょうか・・?

個人で情報を発信してる人たちは「純粋贈与」のつもりで見返りを求めずいろいろ活動をしているのかもしれませんが、それにしてもWikipediaが一人で丸儲けをしているように感じられて、なんだか納得いかないところがあります・・。

私がネットで閲覧した全てのコンテンツの作者たちに対して、一人ずつお礼ができたら一番いいと思うんですが、そんなことを一々していたらとっても面倒くさいですし、だいいち自分がなにをどれだけ見たのかなんて、自分でもよく覚えてないんですよね(人は今まで食べたパンの枚数なんて覚えていないんです・・)

実はこの「不公平な構図」がネット上のいたるところに蔓延していて、巨大なマーケットを形成してるというのが、今回のお話なんです。

これから長い話になりますが、ぜひ辛抱してご清聴ください・・。

物神化!お金を信仰する人々!

その昔、経済学者のカール・マルクスは「物神化」という概念を説きました。

人間が商品を生産をする「労働」という行為は、工場の人が作業をしたり、営業の人が売り込みをしたり、経理の人が計算をしたり、いろんな人々が参加する複雑な営みから成り立っています。

そういった人々の「複雑な労働の営み」から生まれる様々な社会関係の価値が、「お金」というシンプルな「一点の概念」に集約されてしまうこと、そして皆で「お金の価値」を信じきって神様のように崇め奉ること、これをマルクスは「物神化」と呼びました。

あたかも未開人が木彫りの偶像(アイドル)を崇高な神様に見立てて崇拝しているように、現代人はお金にいろんな価値を投影して拝んでいる、これが「資本の物神化」という現象の本質なんだそうです。

この「物神化」という概念は大変便利なもので、広範囲で、複雑で、入り組んでいて、人間の想像力がなかなか及びづらいような営み(しかし大きな価値を秘めている営み)を、たった一点の偶像の中に込めて、みんなでお祈りさえすれば、人々の気持ちが安心して満たされてしまうんです。

マルクスの研究者たちによると、この物神化の構図は「労働とお金」に限った話ではなく、社会の中のいたるところに見られるそうです・・。

物神化はめっちゃ便利!

例えば以前ブログで紹介した、食事の前に「いただきます!」と言う行為、ここにもある種の「物神化」の考えが存在すると思います。

食卓にご飯が並ぶことの背景には、作物を育ててくれた農家の人や、それらを輸送してくれた流通業の人や、お店で売り出してくれた小売りの人といった、様々な人々の人間関係・社会関係の営みが存在します。

こんな複雑な背景に対するねぎらいの気持ちを、目の前のご飯に「いただきます!」って一礼することで、一括返済できるんです(私は「いただきます」があまりにも簡単なので、もはやなぜ「いただきます」をしなきゃいけないのかさえ忘れてしまっていたくらいです・・)

上で挙げたような、私がWikipediaに募金した行為というのも、ある種の「物神化」の一例なのかもしれません。

今まで私がネットから受け取ったたくさんの「贈与」に対する「返礼」を、「500円をWikipediaに渡す」という行為によって一括返済しようとしたということです。

本当だったらお礼をしなくてはいけない相手がたくさんいるはずなのに、Wikipediaというアイコン(偶像)にそれらをみんな一緒くたに投影して、一回のお布施をすることで済ませようとしたということなんですね・・。

物神化というのは、複雑に絡み合った象徴的な概念をざっくりとワンパッケージにしてやっつけてしまうことができる、とっても便利な装置なんですね・・。

ニコニ広告の本当の恐ろしさ!

私がいつも見ている「ニコニコ動画」には、「ニコニ広告」という機能があります。

ニコニ広告には「現代消費社会」の恐ろしさのすべてが詰まっているといえます。この機能がいかに恐ろしい仕組みであるかを、じっくりご説明しましょう・・。

「ニコニ広告」とは、自分が持っている「広告課金ポイント」を使って、好きな動画を「宣伝」することができるという機能です。

自分の好きな動画主さんの動画を宣伝するときもあれば、自作自演的に自分の動画を宣伝するときもあり、その使い方は各ユーザーの自由です。

そしてニコニコ動画をずっと利用してると、ときどき無料で「500円分」の広告ポイントが付与されることがあります。

多くの一般ユーザーたちは、この無料ポイントをお気に入りの動画主さんに振り込んであげて、「これからも頑張れよ!」とねぎらいの意味を込めて宣伝をしてあげます。

この「無料で手渡される広告ポイント」というのが、とっても曲者なんです・・。

広告ポイントは月末をすぎると「無効」になってしまうので、みんな期限がせまってくると急いで誰かにポイントを振り込むことになります。

「期限にせまられて」「その場でパッと思いついた」「自分が好きな」動画主さんの一人に、ポイントを振り込むんです。こういう場合は往々にして、とっても有名な人気動画主さんのところに、ポイントが振り込まれることが多いです。

こうやって動画主さんに広告ポイントを振り込んだ一般ユーザーたちは、いつも楽しませてもらってるニコニコ動画に対してなんだか「借り」が返せたように気分になって、ちょっぴり気分がスッキリとするんですよねきっと・・。

感謝のはけ口としての偶像(アイドル)!

この構図を「贈与の霊」と「物神化」のモデルで説明してみましょう・・。

日夜ニコニコの動画主さんたちがアップロードする無数の動画をタダで閲覧して楽しむこと、これは「贈与」を受け取ってることに他なりません。

そして、今まで楽しませてもらった動画主さんたちに「返礼」をするために、自分の好きな相手にニコニコポイントを振り込みます(この「好きな相手」とはたいてい「人気実況者」とか「カリスマ生主さん」とかです)

この行為によって自分の元に溜め込んだ「贈与の霊」を、相手にお返しすることができるということです。

しかし、いったいこのポイントを受け取っている人気動画主さんとは何者なんでしょうか・・?本来だったら無数の人々が受け取るべき「返礼」を、まとめてたった一人で、まるで代表者であるかのように受け取っているんです・・。

この人物はある意味「ニコニコ」という抽象的なシステムの代理人(エージェント)であり、人々の行き場のない「感謝の気持ち」受け取るために物神化された偶像(アイドル)であるいえます。

人々はこの偶像(アイドル)を拝み、お布施をすることで、ニコニコというシステムから受け取った恵みを「チャラ」にしているんですね・・。

大人が一人勝ちする時代!

この構図はニコニコだけではなくて、世の中のいたるところに存在すると思います。

Youtubeで面白動画を楽しんだら、そのお返しは人気ユーチューバなどの元に還元されて、音楽サイトで新曲を聴きまくったら、そのお返しは人気Jpopアーティストなどの元に還元されて、エッチな無料動画を楽しみまくったら、そのお返しは人気アイドルグループなどの元に還元される、という構図になっているのだと思います・・。

例えば、無名のアーティストがYoutubeでとっても良い曲を無料発信していたとしても、それを聴いた人々はたいてい「Youtubeというシステム」からの贈与として受け取ってしまいます(無数のコンテンツが盛りだくさんの「巨大なブラックボックス」としてのシステムです)

そして「よし、たまには音楽に金を落とすかー!」と気前よく出費をする気分になったときは、たいてい巷で噂の有名アーティストのアルバムを購入する、という仕組みになっているということです(システムのエージェント、あるいは返礼の偶像として選ばれたのが、この有名アーティストなんですね)

ネットの向こう側には、本当は頑張ってコンテンツを作ってくれた人々がたくさんいるんだと思いますけど、彼らの純粋贈与(とされてしまう贈与)はサッと巨大システムの背景に消えてしまって、偶像の中に封じ込められてしまうんです。電気やガスや水道それ自体が感謝されないのと同じように、彼らの営みはいまいち感謝の対象にはなり得ないんですね・・。

以前哲学者の東浩紀さんが、「2010年代は大人が一人勝ちする時代だ」と述べていました。

草の根のアーティストたちがいくら頑張ってもなかなか人々からは評価されずに、巨大資本を後ろ盾とする「大人たち」がすべてをかっさらっていってしまう、という悲しい構図が存在するということです。

無名な人がいくら頑張っても、結局有名人の養分にしかならない、グルーバル資本主義が浸透しきってしまった世の中では、こういう事態は必然的に起きてくることで、もうしょうがないことなんだと思いますね・・。

贈与の霊の祟りに苦しめられるアイドル!

鋭い人はもう気づいてるかもしれませんが、この仕組みには決定的におかしいところがあります。

だってマオリ族に伝わる「贈与の霊」というのは、「贈与」されたモノを「送り主」に返さないといけない決まりになっているんですもん。

上記の仕組みは「贈与」に対して全然関係ない人に「返礼」をしているので、これでは「贈与の霊」が浄化されないことになってしまいます。

浄化されない「贈与の霊」たちは、いったいどこに行くのでしょうか・・?

恐ろしい話ですが、その霊たちはきっと、大量の「返礼」を受け取ったアイドルたちの元に吹き溜まっているのだと思います。彼ら(彼女ら)の背中には、行き場のない無数の贈与の霊たちが、びっしりとこびりついているというわけです・・。

この霊を浄化するためには、もはや彼らが積み上げてきたものを少しずつ切り崩していくしかありません。

①お金を貰ったんだったら、募金をするなり、公共的なことに投資するなりして消費すること(できれば人々の目の前でそれをすることです・・)

②人格者だと思われているんだったら、時々アホな姿をさらして評価を脱臼させること(笑いを提供できる形が一番いいと思いますね・・)

③モノづくりをしてるんだったら、クオリティの高いパフォーマンスをして、人々に再び贈与をお返しすること。

もしこういった「除霊作業」がうまくいかないと「贈与の霊」がもたらす厄災に巻き込まれてしまうことになりかねません・・。

最近有名人が炎上騒ぎを起こして、ネット上でフルボッコにバッシングされてしまう構図がよく見られますが、もしかしてこれは「贈与の霊」がもたらす「祟り」に巻き込まれてしまった、不幸な出来事の一例なのかもしれません・・。

モースは神様への贈与の一つの形として「供犠の儀式」があると述べていました。お供え物を独り占めした悪い巫女は、罰として神様の生贄に捧げられてしまうということなんですね・・。

まとめ!

なんだかだらだらと文章を書き連ねてしまいましたが、私が言いたいことをサックリまとめるとこういうことです・・。

・人々はネットで享受できる無料コンテンツに「借り」を感じている。

・ネットで見かける無名のコンテンツ製作者たちは「抽象的・匿名的・非人格的」に見えてしまって、いまいち感謝の対象足りえない。

・その中で「キャラ」が立っている有名人が「感謝の対象」として選ばれる。

・人々は彼らにお金を支払って「借り」を返そうとする。

・有名人ばっか評価されて、無名人は「トホホ・・」となる。

こういう人々の無意識的な傾向が、ネットを中心とした市場社会に蔓延してるということです。

本当にこういうことが起きてるのかどうかよく分かりませんが、私にはこの効果がとっても支配的に働いてると思えてしまうんです・・。
(みなさんはどう思いますでしょうか・・?)

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コメント

  1. 空想 より:

    もさん、いつも無料で文章を読ませていただいて、ありがとうございます。
    私は馬鹿なので、難しい話が嫌いなのですが、もさんの文章は、すっきりわかりやすくて、才能があるなぁと思います。
    贈与の霊をお返しします!

  2. 刺身 より:

    受け取った贈り物に対して、それに釣り合うお礼を、正しい相手に返す、その当たり前のサイクルが、自然に行われなくなると、どうなるか?
    必然的に、様々な歪みが生じるわけですね。
    贈与の霊の例え話は、とてもわかりやすかったです。
    あらゆる物は連鎖するんですね。
    そして、生じた歪みのバランスを取るために、人々の鬱屈した思いが吐き出される。

    話はそれますが、返礼の流れの歪みという視点で考えてみると動画サイトの著作権侵害動画周りはかなりグロテスクですね。視聴者からお礼を言われるのはコンテンツの本当の作者ではなく、違法アップロード動画の神投稿者。広告収益を上げるのは動画サイトの運営企業。コメント欄に、平気で書き込まれる、制作スタッフへの誹謗中傷……。
    話が、だいぶ逸れましたが、何かを受け取ったお礼は、他に何もはさまず仲介させずに本人に直接返すのが一番ですね。良いブログ記事には、お礼のコメントを。ありがとう!

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