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先日ニューヨーク・タイムズでとても興味深い記事を見つけました。
人間は自分の信念と相反する出来事に直面したときに「認知的不協和」という不快感を覚えるそうです。そして、その「認知的不協和」を解消するために、自らの考えを「合理化」して変えてしまう傾向があるそうです。この記事では、認知的不協和にとらわれた人々が取りがちな政治的態度について警鐘を鳴らしています。とてもためになる記事なので、ぜひ読んでみてください。
以下、ペンシルベニア大学・ワシントン校の教授アダム・グラントさんが語る「The Virtue of Contradicting Ourselves(矛盾することの長所)」です!
目次
人は矛盾した態度が大嫌い!
もしあなたがアメリカで政治家になるならば「嘘つき」「詐欺師」「傲慢」「臆病者」呼ばれることよりも、もっと避けなければいけないことがあります。それは「考えをコロコロ変える人」と思われることです。
一例をあげるならば、ジェブ・ブッシュやヒラリー・クリントンです。彼らはイラクを侵攻したことについて「YES」から「NO」に自分の意見をくら替えしたことを、ずっと非難され続けてきました。
ジョン・ケリーも十年ほど前にこの手の手のひら返しをしたことによって、人々からの信頼を失ってしまいました。動画サイトでは、ジョージ・ブッシュがケリーを「パンケーキ屋よりたくさんワッフルを持っている!」とからかうアニメが流行りました。「ワッフルを持っている」とは「曖昧な態度」を揶揄する言葉です。
イギリス人も同様に、矛盾した態度に対して大きな嫌悪感を持っています。マーガレット・サッチャーの有名な言葉に「You turn if you want to, The lady’s not for turning.」というものがあります。「Uターンしたいならばあなたがすればいい、私は決して後戻りしない」という言葉です。イギリスでもやはり、このような自分の意見を貫き通す強い態度が評価されるようです。
認知的不協和の心理学!
我々は他人の中の矛盾や自分自身の中の矛盾にとても敏感です。なぜ我々はこれほどまで矛盾した言動を嫌うのでしょうか。
社会心理学者のフェスティンガーは「認知的不協和」という言葉を作りました。これは、人が自分の信念と矛盾する言動に直面したときに抱く不快感を説明するための言葉です。フェスティンガーは、人間がこの「認知的不協和」を解消するために大きな労力を払うことを示しました。
例えば、あなたが「銃規制に反対」の立場だったとしましょう。そして、100ドルの報酬を受け取って「銃規制に賛成」するスピーチをすることになったとします。たとえスピーチをしたからといって、あなたの意見は変わらないでしょう。「私はお金を得るためにスピーチをしただけです、私の考えは変わっていません」といった具合です。
しかし、あなたがたった1ドルの報酬を受け取ってスピーチをした場合はどうでしょう。不思議なことに、あなたが自分の意見を変えてしまう可能性はぐっと高まります。「銃規制に賛成する意見も一理あるかもしれない」と考え出すのです。
また、フェスティンガーは次のような例もあげています。
あなたは二つの種類の仕事を紹介され、そのうちからどちらかを選ぶように促されたとします。二つとも魅力的な仕事ですが、あなたは悩んだ後に一つの仕事を選び取ります。
その後、あなたはある不協和を感じることになると思います。今やっている仕事の辛い部分が気になりだして「もしかしたらもう片方の仕事の方が楽しかったのではないか」と考えだすのです。
この不協和を解消するために、あなたは自らの考えの合理化を開始します。「辞退した仕事だってどうせ良いものではない」と考えだすのです。かくして矛盾は消え去ります。
また、あなたが「世界は洪水で滅亡する」と予言する宗教団体に加わったとしましょう。もしその予言が実現しなかったとしても、あなたはこのカルト思想をあきらめません。自分の信念を変える心の負担に耐えられずに、ますます熱心に信仰を深めてしまうことになるのです。
どんなときに認知的不協和が生じるのか?
たしかに、こういったケースに当てはまらない例も存在します。人はしばしば矛盾した二つの信念を全く気にすることなく同時に抱くこともありえます。人はいったいどのようなときに、相反する考えに不協和を感じるのでしょうか。この問題は心理学者たちを長年悩ませてきました。
学者たちは初めに次のような説を考えました。矛盾した考えがその人の自己像にとって否定的であったときに、不協和が発生するのではないかという説です。しかし、この考えでは赤ん坊・ラット・サルなどにも不協和が生じることをうまく説明できませんでした。
また、自分の選択がネガティブな結果をもたらしたときだけ、不協和が発生するのではないかという説もありました。しかし、この考えでは次のような実験の結果をうまく説明することできませんでした。それは、人々が自分の信念に反する何らかの文章を書いて、それをゴミ箱に捨てた後でさえも、不協和を感じ続けるというものです。
「自分に否定的な結果をもたらさないのに認知的不協和が発生する」これは心理学者の間で長年の間謎とされてきた問題でした。
しかし、最近ニューサウスウェールズ大学の心理学者、エディ・ハーモン・ジョーンズ教授たちのチームが、この問題を解決する良い考えを提案しました。
ハーモン・ジョーンズは人の脳の活性部位をモニタリングすることで、次のような傾向を見いだしました。それは「矛盾した考えがその人の行動を邪魔する意味を含んでいたときに強いストレス・不協和を生じさせる」というものです。
例えば「中絶の権利を認める政策」と「減税政策」の2つに対して反対意見をもっていた人がいたとします。この人がいざ選挙をむかえた時にどのように投票するでしょうか。中絶の権利を認め、減税に反対する民主党。中絶の権利に反対し、減税は認める共和党。どちらに投票しても自分の信念と矛盾してしまうこの状況は、彼に強い不協和を感じさせます。
そしてこの不協和を解消させる方法はただ一つ、中絶の政策や減税の政策についての自分の意見を変えてしまうことです。これで不協和ともおさらばというわけです。
意見を変える政治家は認知的不協和を感じさせる!
このことは、なぜ我々が政治的信念をシンプルに右・左といったポジションに置きたがるのかをよく説明しています。我々は、初めのうちはもっと複雑で微妙なニュアンスを含んだ意見を持っていたはずです。しかし、主張の矛盾の無さ・首尾一貫性を追求していくうちに、二つの間にまたがるようなグレーな考えを白・黒一色に塗りつぶしてしまうのです。
また、我々がなぜ意見を変える政治家を嫌うのかも、この考えで説明することができます。我々は、政治家たちが明確な原理原則を持っていないように見えることや、言動に整合性を見出しづらいことに不協和を感じ、それを排除しようとするのです。
この点でいうと、大統領候補者のドナルド・トランプの言動には頼もしいところがあります。たしかに我々は彼の主張には全く同意できません。しかし、彼がいったいどういう人間で、どういったことを主張するのかをよく知っています。
彼の一貫した態度はとりわけ政治的保守の人に魅力的に映ります。彼の言動はリベラル派のそれよりも、よりシンプルで、より力強く、より確固とした序列を持っているように感じられるのです。
もしあなたが曖昧さのない理解しやすい言動を好み、変化的であることよりも安定的であることを好むのならば、自身の意見をしっかりと堅持する候補者が魅力的に感じられることと思います。
意見を変えることはそんなに悪いこと?
たしかに、よく意見を変える政治家は理解しにくい側面があります、しかし、それは同時に彼が世相を読む事に長けているということも、意味するのではないでしょうか。
知性的であるということは学びの能力があることを意味します。そして、よく学ぶ人は自分の考えを変えることができる人でもあります。
歴史家や政治研究家は、歴代の大統領を評価するときに、彼がどれだけオープンマインドであったかを重視します。これは保守派の大統領にとってもリベラル派の大統領にとっても同じことです。リンカーンはよく意見を変えることで有名な人でした。彼は奴隷解放の宣言をする以前は奴隷制に肯定的だったそうです。また、ルーズベルトも同様に手のひら返しが得意でした。彼は財政のバランスを安定化させる施策を掲げて当選しましたが、ニューディール政策に打って出て大規模な財政支出を行いました。
ある人が意見を変えることは、他の人に気づきを与える効果があります。我々は、政治家がコロコロと意見を変えることを恐れることと同じくらい、政治家が同じ意見に固執し続けて進歩を止めてしまうことを警戒しなくてはいけません。
文学者のジョージ・バーナード・ショーは、以下のような言葉を残しています。
「変化なくしては進歩はありえない、そして、自分を変えることができない人間は何も変えることができない」
また、美術家のマルセル・デュシャンは、次のように述べています。
「私は自己にとらわれ順応してしまわないように、常に自分自身を批判的に見るよう心がけています」
我々はもっと、他人や自分自身の矛盾に直面したときにオープンな態度で接する習慣をつけるべきではないでしょうか。
まとめ!
以上、アダム・グラントさんによる「The Virtue of Contradicting Ourselves」でした!
認知的不協和にとらわれた人々は、政治家の意見の変更を嫌い柔軟な方向転換を認めない傾向がある。そして彼らは留保的な政治的判断をせずに、白黒両極端な思考に陥ってしまう傾向がある、といったことなのでしょうか。
この文章を読んでてちょっとショッキングだったのが「人々は政党の掲げる政策パッケージに合わせて自分の意見を変えてしまう傾向がある」という箇所です。こういった習慣が根付いてしまうと、ある政党の考えを丸飲みにして、コピペのように同質な意見を話す人々が大量生産されてしまうという、なんだか恐ろしいことが起きてしまいそうです。
認知的不協和を感じたときに「合理化」によって自分の考えを捻じ曲げてしまう行為も、どうやら程々にしておいた方が良さそうです。こういったことを続けているとどんどん自分の主体性が失われていってしまい、いつしか自分を欺き続けてきたことがブーメランになって返ってきて復讐されてしまいそうな、そんな気がしてきます。
認知的不協和にとらわれてしまったときに、それをうまく対処する方法はなにかないのでしょうか?
最近読んだ社会学者・樫村愛子さんの本に「留保的措定」という、とても良い考えが紹介されていました。留保的措定とは、何かの情報に触れたときに「これは白だ!」「これは黒だ!」といった短絡的な二分法思考(1ビット思考)に陥らずに、「白かもしれないし黒かもしれない」という柔軟で含みのある、人間的な判断ができる思考のことです。ある種の統合失調症の患者などは、この留保的措定が機能せずに白・黒両極端な思考に陥ってしまう傾向があるそうです。
留保的措定を支える源となるものは、他者(原始的には母親)によって支えられているという感覚・存在論的安心感・世界への信頼感、といった感覚だそうです。おそらく孤独に落ちいって心に余裕がない人や、精神的に参ってる人などは、留保的措定をすることが上手くいかず、認知的不協和を心に遊ばせておくことに苦痛を感じ、自分の認知を捻じ曲げることでそれに対処しようとする傾向があるのではないでしょうか。
バランスのよい考えを身に付けるためには周囲から包摂される必要がある。いつも似たような結論になってしまうのですが、結局こういうことなのでしょうか。引きこもりにとってはなんとも耳が痛い話です・・。
参考サイト・参考文献:
参考「The Virtue of Contradicting Ourselves」, Adam Grant(2015)
参考「ネオリベラリズムの精神分析~なぜ伝統や文化が求められるのか~」, 樫村愛子(2007)