すぐ人に左右されちゃう人ってどんな人なの

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consummatoryphoto by Naoto Takai

最近よく思うんですけど、他人に左右されちゃう人って、いったいどういう人なんでしょうか!?

自分の「意見」とか「好み」とかをあんまし持っていなくて、いつもみんな言ってることに「そうだそうだ!」と同意してしまったり、世間で褒められてるものが、自分もなんだか良いもののように思えてしまったり、ようするに他人に同調してしまう傾向がとっても強い人です。

私自身もけっこうそういうところがあるんですけども、最近なんだか世の中にそういう人が増えてきてる気がするんですよね・・。

今回は「他人に左右されてしまう人」とそれを取り巻く社会環境について、じっとりと考えてみました・・。

自分があるってなんなの!?

人にすぐ左右されてしまうことって、いい意味でいうと「協調性がある」という表現もできますが、悪い意味でいうと「自分がない」という表現もできると思います。

じゃあそもそも「自分がある」って、どういうことなんでしょうかね・・?

その昔、哲学者のラカンという人が、「自分」という存在は「他人」によって形作られていると述べていました。

これはいったいどういうことかというと、例えば赤ちゃんのことを考えてみてください。

赤ちゃんは、心の中に何も書き込まれていない、真っ白な「白紙」のような状態で生まれてきます。そこに生まれて初めての他人、お母さんという存在が現れて、赤ちゃんの心はお母さんによって影響を与えられます。

その後、赤ちゃんの前にはお父さんや、おじいちゃん、おばあちゃん、兄弟、近所の人といった他人が次々と現れて、赤ちゃんの心は次々と影響を与えられていきます。

ラカンは、赤ちゃんがこのように他人と接していく中で様々に影響を受けて、「鏡写し」のように相手の心を自分の内面に取り込んで成長していく過程を、「鏡像段階」と呼びました。

「自分」という人間の内面は、元をたどるとみんな「他人」からできている。「自分」という存在は、いってみれば「他人」の心を自分の心に内面化してきた歴史、今まで触れ合ってきた他人の集積体、と表現することができそうです。

ラカンの言っていることを乱暴に要約すると、こういうことになるんだと思います(ちょっとあやしいかもしれませんが・・)

内なる他者 vs 現前の他者!

ラカンは「自分の欲望」というのは「他人の欲望」であるとも述べていました。

自分がやりたいこととか、好きなこととか、欲しいものとかは、元々はみんな「他人」から、影響を受けたものであるということです(そして同時に自分も他人の「欲望」に影響を与えます)

俗にいう「自分がある」人というのは、言ってみれば自分の内にいる他人(内なる他者)の声を聞いて、欲望を抱く人なんだと思います。

今まで接してきた人たち(お父さんやお母さんや先生など)から受けた影響によって、自分の欲望が形作られている人です。

そして、俗にいう「自分がない」人というのは、目の前にいる他人(現前の他者)の声を聞いて、欲望を抱く人なんだと思います。

テレビやネットで見たこととか、集団の中で言われている意見とかに大きく影響を受けて、自分の欲望が形作られる人です。

人間には多かれ少なかれ、上で挙げた両方の側面を兼ねそろえているのだと思いますが、「人に左右されやすい人」というのは、どちらかというと「内なる他者」よりも「現前の他者」の声を比較的よく聞く傾向がある人なんだと思いますね・・。

多元的自己とは!?

以前読んだ論文に書いてあったんですが、最近「多元的自己」という特徴を持つ人が増えているんだそうです。

一般に、人間はたくさんの「顔」を持っていて、状況によって様々な「自己」を演技によって使い分けています。

しかし、近年の人々の「自己」の使い分け方は、もはやたんなる「演技」ということを超えて、まるで「自己」が多重に分かれた「多元的構造」を取っているように見えるのだそうです(それはあたかも軽度の多重人格にも似た構造です)

「多元的自己」を持つ人は、状況によって様々な人格を使い分けます。

例えば、職場ではとっても恐い鬼上司だけども、家庭では優しいパパだとか、リアルの人間関係ではとっても柔和なのに、ネットでは狂犬のようにアグレッシブな振る舞いをするとか、そういうことです。

この論文では、「多元的自己」を持つ人が増えてきている原因を、「親密な関係が取り結ばれる場」から、人間が抜け出しやすくなったためではないかと説明していました。

「社会的埋め込み」の拘束力が低下して、人間はコミュニティからコミュニティへ、浮遊するように移動しやすくなったということです。

そして、様々なコミュニティを股がけしながら、広く浅い人間関係の中で生活を営んでいるうちに、自己同一性を統合する力がゆるんで、しだいに分裂したような自我構造が形成されてしまうということです。

この「多元的自己」という概念は「人に左右されやすい人」を説明する上で、とてもよいヒントになりそうな気がします・・。

ちょっと注釈を入れますと・・

ここで念のためちょっと注釈を入れておきますけど、「人に左右されてしまうこと」とか「多元的自己」を持っていることというのは、特に悪いこととは限らないということです。

少しくらい他人に左右されてしまったり、状況によって自分を使い分ける柔軟さがあった方が、周囲と上手くやっていける「大人」な人間であるという見方もできると思います。

逆に強烈な「自己」を持っている人というのは、しばしば頑固で気が強い性格をしていますし、ひょっとしてそれが悪い方に向かうと、何か狂信的な思想に取りつかれて、犯罪的なことをしでかしてしまう可能性なんかもあると思います。

人間にはそれぞれいろんな性格があって、なにがプラスでなにがマイナスであるかということは、あくまで状況によりけりであり、程度の問題だということですね。

このことを一応書いておきます・・。

人に左右されてしまう人=イマ・ココ指向?

スピーゲルという心理学者が、こういうことを言っていました。

「解離性障害(多重人格)の本当の問題は、複数の人格をもつということではなく、ひとつの人格すら持てないことだ」

「多元的自己」を持つ人は「たくさんの自己を持っている」という言い方もできますが、見方を変えると「一つも確たる自己を持っていない」という言い方もできそうです。

そして「多元的自己」を持つ人は、おそらく「確たる自分の欲望を持つ人」というよりは、どちらかというと「他人の欲望に左右されてしまう人」だと思います。

それは、自分の内なる他者(=過去の他者たち)の声よりも、現前の他者(=リアルタイムの他者)の声を聞く傾向が高いことを意味します。

以前社会学者の古市憲寿さんが、現代人は「コンサマトリー化(=イマ・ココ指向)」していると述べていました。

古市さんの言っているコンサマトリー化とは、大きな物語を求めずに、自分の周りの小さな物語に喜びを見出す性質、遠い過去や未来のことよりも、自分が今生きているリアルタイムを重視する性質のことを指します。

「人に左右されてしまう人」というのは、まさに古市さんの述べたような「イマ・ココ指向」の体現者であるように感じられます・・。

歴史が失われる時代!

以前評論家の東浩紀さんが「日本人はとても忘れっぽい!」と指摘していました。

東さんは、相模原の障害者殺傷事件をはじめとする重大な事件が、一年もたたないうちに全く人々の記憶から忘れ去られてしまっていることを危惧していました。

また、この前FNS歌謡祭で長渕剛さんが「日本から言葉が失われていく!歌が失われていく!」と、放送事故寸前?の過激な口調で「乾杯」を歌い上げていました。

あの「乾杯」も、昨今の人々の「忘れっぽさ」によって、日本から「歌」や「言葉」といった文化的なものが失われていくことを、嘆いた歌なんだと思います(私には長渕剛さんの言いたいことがビシビシと伝わりました!)

このような世間に「忘れっぽさ」が蔓延している風潮というのは、「他人に左右されてしまう人」が増加していることと、どこかで連動しあっていると思います。

「他人に左右されてしまう人」というのは、「歴史性」よりも「リアルタイム性」を重視する傾向を強くもつ人です(自分の内なる声(歴史性)よりも周囲の声(リアルタイム性)を重視するということです)

そして「他人に左右されてしまう人」から構成される社会は、「歴史性」が失われて「リアルタイム性」ばかりがクローズアップされる性質を帯びるということです。

こういったことが起きている根底にあるものは、やはり世の中の流動性だと思います。

「人」が流動的に移動することによって、つねに自分の居場所が移り変わること。「モノ」や「情報」が洪水のように溢れていることによって、つねに考えの転換をせまられること。

この流動的な近代社会(リキッド・モダニティ)に適応するためには、もはや歴史的なことにしがみついていては、とてもフットワークが重くて、やっていられないということなんだと思いますね・・。

まとめ!

「他人に左右されてしまう人」や「歴史が失われる時代」が現れる背景には、その根っこに「流動的社会」という、とても深い構造的な要因があるように思えます。

この大きな流れに対して「もっと自分をしっかり持とう!」とか「ちゃんと過去を振り返ろう!」とか、そういうことを言っても、もはや世の中の空気が変わることはなさそうな気がしてきます(なんせ個人の人格構造のレベルでこの仕組みが出来上がってしまっていますからね・・)

社会学者の古市さんは「コンサマトリー」な人たちが、とても高い幸福度の中で生活をしていることを指摘していました。

また「多元的自己」について書かれていた論文でも、人々がインターネットやケータイを駆使して、他人とのコミュニケーションを楽しみながら、「多元的自己」にもとづく自分なりのアイデンティティを形成していく可能性が記されていました。

「他人に左右されてしまう人」が多い世の中は、忘れっぽくて反省の機会が持てなかったり、文化に多様性がなくなってフラット化してしまったり、色々悪いところもあるかもしれませんが、きっと良いところもあるのだと思います。

今の時代の良さを活かして、これからの世の中の仕組みを作っていくことが、きっとこれから求められていくことなんだと思いますね・・。

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