私たちの頭上を覆う「天蓋」にキミは気付いているか!?

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最近私がモヤモヤと考えていることなんですが、ものごとの「意味」とか「価値」っていったいどういう風に生まれるんでしょうか・・?

私は引きこもってネットばっかしている系の人間なんですが、ときどき世の中の人が考えてることがよく分からなくなって、どんどん世間と感覚がズレてきてる気がして、なんだかめっちゃ不安になるんですよね・・。

そんな私ですが、最近新たに「念能力」が開花しはじめたのか、だんだんと世間の頭上を覆う「天蓋」が見えるようになってきました。

みんなには見えますかね・・?

ほら、上を向くとあるでしょ、私たちの頭上を覆う巨大な「天蓋」が・・。

天蓋という概念!

「天蓋」というのは、アメリカの社会学者ピーター・バーガーが唱えた概念のことです。

「天蓋」というのを分かりやすく言うと、人間たちが日ごろ認識している「意味」や「価値」を当たり前のことのように信じ込むために必要な「世界にかぶさる覆い」のことです。

人々が「意味」や「価値」を常識のようにそう思い込むことによって世界には「天蓋」が構築され、その「天蓋」によって、人々は自分たちの思い込みを維持できるということです。

もし私たちの常識を支える「天蓋」が失われてしまったら、人々は当たり前に思っていることがなんだか当たり前に思えなくなってきて、

「なんで働かなくちゃいけないんだっけ・・?」
「勉強とかしても意味なくね・・?」
「結婚とか別にしなくてもいいよな・・?」
「人ってほんとに殺しちゃいけないのかな・・?」

といったように、世界は意味に覆われた「ノモス」の空間から、意味喪失の危険な空間「アノミー」に変化してしまうのだと、バーガーは述べています。

私は最近この「天蓋」という考えにハマっていて、日常生活のいろんなところに現れる「天蓋」が失われた「ヤバ空間」を、チェックしまくっているんですよね・・。

傍観者効果には全てが詰まっている!

「傍観者効果」という言葉があるのをご存知でしょうか。

「傍観者効果」とは、世の中に何か「重要な出来事」が起きたときに、たくさんの人間がそれを目撃しているにも関わらず、みんな傍観者のように無関係を決め込んでしまい、その出来事をスルーしてしまう現象のことを指します。

例えば駅前で具合の悪い人が倒れていたとします。

普通だったらすぐに通行人が介抱をして、救急車とかを呼んでくれるはずです。

でも「傍観者効果」が働くと、みんなスタスタとその病人の脇をスルーして通り過ぎてしまい、哀れその病人は寒空の中でマッチ売りの少女のように凍死してしまうというわけです(ドキュメンタリー番組とかでよく見かけますよねこの光景・・)

この「傍観者効果」には、都会のコンクリートジャングルの一角に現れた「天蓋」にポッカリと穴があいてしまった「ヤバ空間」のヤバさが、とってもよく表れていると思います・・。

天蓋がないからいけないんだ!

私はこの前電車に乗っているときに「傍観者効果」に似た現象に直面しました。

私の前の座席にベロベロに酔っぱらったおじさんが座っていたんですけど、突如そのおじさんが座席からズルっと滑り落ちて、昏睡状態に陥ってしまったんです。

なんだかヤバいいびきをかきながら地面にぶっ倒れているおじさんに対して、周囲の人たちはなんだか気まずそうな面持ちで、我関せずとスルーを決め込んでいました。

そのうち近くにいた大学生?っぽい三人組の男の子がおじさんに近寄って、「おっちゃん大丈夫か?」「駅員さん呼ぼか?」といったように介抱を始めました。

今時珍しい見上げたナイスな男の子たちだと思いますが、しかし、彼らだって「三人組」でつるんでいたからこそ、おじさんを介抱する気になったんだと思います。

一人一人別々に電車に乗っていたら、他の乗客と同じで「無視」を決め込む可能性が高かったんじゃないでしょうか(そう、私のようにです!)

「天蓋」とは、人と人が関わり合う空間の頭上に現れる概念です。電車に偶然乗り合わせた都会の乗客たちのように、互いに接点を持たない「剥き出しの個人」たちが集まる空間では、「天蓋」はその効力を失い、霞のようにおぼろになってしまうんだと思います。

私は自分が酔っ払いのおじさんを無視していたことになんだかチクチクと罪悪感をおぼえて、「天蓋のせいだ・・!天蓋がないからいけないんだ・・!」と心の中でつぶやきながら、夜道をトボトボと歩いて帰りました・・。

天蓋がないせいでウケない・・!そう、天蓋のせい!

私はTwitterのフォロワーがたくさんいることがプチ自慢で、自分が作ったwebサービスとかアプリとかを、よくTwitter上で発信したりします。

ある日私がTwitter上で体験した、とってもショッキングな出来事をお話ししましょう・・。

私は三カ月くらいかけてあるwebサービスをシコシコと作り上げて、Twitter上で公開したんです。とっても苦労して作り上げた会心の一作のつもりだったのですが、しかし公開してみると「ウケないッ・・・!」

私のつぶやきがリツイートされる動きとかはほぼなく、お気に入りもパラパラと一つ二つ付くだけの、なんだかさみしい反響が起きただけに終わってしまいました・・。

ガックリと失意にうなだれた私は、その後しきり直しのつもりで「うんこ!」と元気よくつぶやいたものです。

するとどうでしょう、「うんこ!」というつぶやきがパラパラとリツイートされて、お気に入りも二桁台ほど付いて、そのつぶやきは大変好評を博したのです!

このことが意味するものは一つです、数カ月かけて作った私のサービスは「うんこ以下」だということッ!

その晩私は枕を涙で濡らしながら「Twitterには天蓋がないからいけないんだ・・!そう、天蓋のせいなんだ・・!」と眠れぬ夜を過ごしたものです。

そうです、「天蓋」の効力が及ばない空間では、世界の意味も価値も解体されて、ものごとにまともな評価は与えられず、とっても重要なことだって簡単にスルーされてしまうのです。

これは私の作ったものがつまらないからではなくて「天蓋」がわるいのです、きっとそうなのです・・。

天蓋のないSNSはオワコン!

この前ニュース記事で呼んだのですが、最近「Twitter」の影響力がなんだか下降気味なんだそうです。

Twitterはなぜ、米メディア企業の関心を失ったのか?:「競争で負け組になっている」

アメリカのメディアによると、最近「Twitter社」はライバルである「Facebook社」に対して後手後手に回ってしまっていて、各メディアの広報担当の人たちからは

「あらゆることがFacebookで起きている!」
「Twitterについて時間をかけて検討することはない!」

と辛口評価を受けていて、なんだか見放され気味なんだそうです・・。

一時期SNSの王者の座に上り詰めるほど勢いがあった「Twitter」ですが、いったいなぜこんな体たらくになってしまったのでしょうか?

企業が新製品の情報を発信しても「Facebook」では盛り上がるのに「Twitter」ではあまり盛り上がらない、このことはいったい何を意味しているんでしょうか・・?

ここにもやはり「天蓋」という概念が見え隠れしています。

「天蓋」というものは、おそらくネット上の「顔の見えないコミュニティ」とかよりも、実際に顔を突き合わせたことがある「リアルワールド」の人間関係の中にこそ、より強くその効果を発揮する傾向があるんだと思います。

そういう意味で言うと「Twitter」よりも「Facebook」や「LINE」といった、リアルな人間関係と地続きにあるSNSの方が、「天蓋」によって「意味」や「価値」が生み出される効果が比較的高いのだと思います。

これから「来る」次世代のSNSというのは、おそらく「リアルな人間関係」と地続きであることが、とっても有利な条件になるのだと思いますね。私はそう予測します(これは広告代理店にとって良いものであって、私たちの社会にとって良いものであるかどうかは分かりませんが・・)

人物の頭上に現れる天蓋!

「Twitter」の中には私のようにスルーされてしまう人間もいれば、みんなから「ワーッ」注目される人気者もいます。

この違いは一体なんなのでしょうか・・?

その答えはやはり「天蓋」です。

「天蓋」は世界の頭上に現れるだけではなくて「人物」の頭上にも現れます(厳密に言うとその「人物」の周囲を取り囲む群衆たちによって作られます)

今はなきスティーブ・ジョブズが、たしかこんなようなことを言っていたような記憶があります。

「人は自分が本当に欲しいものを自分では理解できない。実際にソレを目の前に見せられたとき、初めて自分が欲しがっていたことを理解するのだ!」

この言葉は人間の心理を言い当てていて私はとっても好きなんですが、一言だけこれに付け加えたいことがあります。

実は人間は「ソレ」を見せられただけでも、まだ自分の欲望を自覚できないと思います。

欲望を自覚するのは「ジョブズ」のようなカリスマが「ソレ」を皆の前で掲げたときです。

その姿を見た何十万・何百万のジョブズ信者が「うおーッ!またジョブズがやってくれたッ!スゲェッッ!」と大歓声を送る、この状況に巻き込まれたとき、初めて人は心の底から「ソレ」を良いと思えるってことです。

このとき、ジョブズとジョブズを取り囲む人々の頭上には、天使の輪っかのような巨大に輝く「天蓋」が立ち現れていることでしょう。

こういうカリスマ的な人は、どこに行っても自分の頭上に「天蓋」の方が付いてくるので、活動の場所を選びません。「Twitter」上だろうが「Facebook」上だろうが「自分のブログ」上だろうが、どこでも発信するだけで大きな物議を醸しだすのです。

世界から「天蓋」が失われていく昨今の時代、「人物」の周りに築かれる「天蓋」は、ますます重要な意味を帯びているのだと思います・・。

「この世界の片隅に」は天蓋を表現した映画だった!?

この前世間を騒がせているあのアニメ映画「この世界の片隅に」を見に行ったんです。

私は上映開始から20分も経たないうちに「あ、天蓋だな」と思いました。この映画はまさに、まだ世界に「天蓋」がかかっていたころの、古き良き日本を描いた映画であることが分かったんです。

この映画の主人公であるすずちゃんは、おっとりしたなんだか頼りない性格の女の子で、空襲によって家族を亡くしたり、大けがをして片腕を失ったり、とても辛い体験をします。

もし私があんな辛い目にあったら、きっと家に引きこもりきりになって、ツイッターでかまってちゃんツイートを連投しまくる、超メンヘラ人間と化してしまうことでしょう(なんだか今の生活とあんまし変わらない気がしますね・・)

しかし、すずちゃんはその不幸を乗り越えて、明るく前向きに生きていくことができるのです。これはまさに「天蓋」のご利益であるといえます。

「天蓋」に覆われた空間の特徴として「象徴操作」が滅茶苦茶うまく働くことがあげられます。

映画の最後の方で、母親をなくした孤児の女の子をすずちゃんたちが引き取って、新しく家族として迎え入れるシーンがありましたよね?

あの孤児の女の子にとって、すずちゃんや義理のお姉さんたちは亡くなった「母親」の象徴的な代理であり、またすずちゃんや義理のお姉さんたちにとっては、あの孤児の女の子は爆弾に巻き込まれて亡くなった「はるみちゃん」の象徴的な代理です。

そしてこれらの関係が生まれる発端には、すずちゃんの「失われた右手」を焦点した、すずちゃんと孤児の女の子が互いに引かれあう、象徴的なインスピレーションがあったんです。

人が死ぬことや右手を失うということは、取り返しのつかない「絶対的な欠如」であり、そして「絶対的な欠如」を埋め合わせるものは、もはや象徴的なものしかありません。

そして「天蓋」のある空間というのは、その「取り返しがつかないこと」を埋め合わせる象徴的な力が、とても上手く働くんですね。

すずちゃんと孤児の女の子が初めて対面したときに「キュピーン!」と生じたあのニュータイプ的な直観能力、そしてそこから生じたアクロバチックな象徴的結合は、まさに世界に「天蓋」があったあの時代だからこそ、成り立ったものではないでしょうか・・。

ケンモ革命の失敗は天蓋がないためだった!?

最近2chの「嫌儲板」というところで「みんなで革命を起こすぞ!」と住民たちが決起する事件が起きたことをご存じでしょうか!?(世にいう「ケンモ革命」という騒動です)

みんなでwebサイトを立ち上げたり、オフ会ミーティングを計画したり、本気で2ch発の政治組織を作って、政界に殴り込みをかけてやるといろいろ画策していたみたいですが、おそらく一週間くらい経ったころでしょうか、なんだかみんな飽きが来てしまったみたいで、革命のための恐ろしい計画は、結局お流れになってしまいました・・。

私はそのスレをドキドキするような気持で密かにウォッチしていたのですが、なんだか消化不良のまま話が尻すぼみになってしまって、とても残念な気持ちになりました・・。

昔の2chだったら、砂浜のゴミ拾いをしたり、フジテレビの前でデモをしたり、みんなが「打って一丸」となるような運動が起きる素地があったのですが、どうやら今の2chにはそういう力は残っていないみたいです。Twitterが影響力を失いつつあるように、2chもやはり影響力を失ってしまったんです・・。

お察しのとおり、この背景にもやはり「天蓋」の力が潜んでいます。

昔の2chはぶ厚い「天蓋」に覆われていて、人を突き動かす「意味」が飛び交う強度の高い空間だったと思います。しかし今となっては「天蓋」の効力は薄れて、ずいぶんと「あっさりタンパク」な空間になってしまいました。

あのときの2chの「強度」は、おそらく今の「ネット右翼」の人たちが継承しているのだと思われます。「ネット右翼」という集団が織りなす空間は、ぶっとい「天蓋」に覆われて濃密な意味に満ち溢れた、逆の意味でヤバい空間だと思いますからね・・。

天蓋は本質を隠蔽する!

以前、精神科医の斎藤環さんが面白い話をしていました(斎藤環さんからの引用がやけに多いですね私は・・)

その昔、斎藤さんの患者さんの一人に、ジャニーズの大ファンで、あるメンバーの追っかけをしている「ジャニオタ」の女の子がいたそうです。

ある日その女の子が大好きな「推しメンバー」がグループを脱退して、独立することになったんだそうです。

初めのうちは女の子は「これで推しメンの追っかけがしやすくなったぞ」と喜んでいたそうです。

しかし「推しメン」が脱退してしばらく経ったころ、女の子はその「推しメン」に対して以前のような興味を失ってしまい、やがて同じグループの「別メンバー」の追っかけをするようになってしまったんだそうです。

これはいったい何を意味するんでしょうか・・?

ここに「天蓋」のからくりがあります。

おそらくその女の子が好きだったのは「推しメンバー」そのものではなくて、「”そのグループ” で活動する “その推しメンバー”」であったのだと思います。

「天蓋」というのは「人物」の頭上に現れることもあれば「グループ」の頭上に現れることもあります。このケースにおいては、「天蓋」が宿っていたのは「推しメン」の方ではなくて「グループ」の方だったのでしょう

「天蓋」というものは常にものごとの背後に潜み隠れて、人々に価値の在りどころを錯覚させる力があります。「価値」があたかも「そのもの自体」に宿っているかのように、ものごとの本質を移し替え、隠蔽して、見当違いのものを信じ込ませようとするんです。

「天蓋」の働きを注意深く観察しないと、人間はしばしば「料理」よりも「それが盛られている器」の方にこそ価値を見出すのだということを、忘れてしまうことがあるんですね。

「天蓋」を決してあなどってはいけないということです。一般人が日常生活を送る分にはなんら問題ありませんが、何か物事の本質を見極めなくてはいけない職業に就いている人は、「天蓋」の力がどのように働き何を隠蔽しているのかを、常に意識しながら仕事を進めなくてはいけないということなんですね・・。

まとめ!

以上、「天蓋」という概念について延々と妄想を書き連ねてみましたが、いかがでしたでしょうか?(私のおつむの具合が刻々と悪化してることが診て取れると思います・・)

なんだかやたらと「天蓋天蓋」というワードを連呼しまくっている私ですが、この言葉の生みの親であるバーガーは「あまりに天蓋の力が強すぎることも問題である」と述べていました。

ぶ厚い「天蓋」の下にいる人々は、往々にしてものごとの意味を原理主義的に信じ込んでしまったり、自分たちの世界の外側にある価値観を想像できなかったり、ある種の「村社会」的な欠点があることが多いのだそうです。

バーガーは「天蓋」の恩恵を享受しつつも「天蓋」に入れ込みすぎない「ミドルポジション」という中間的な立ち位置を推奨していました。「天蓋」は人間にとって毒にも薬にもなりうる「パルマコン」であるということなんですね。

「天蓋」の効果というのは強すぎてもダメだし弱すぎてもダメ。やっぱり何事もほどほどが一番だということなんだと思いますね・・。

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コメント

  1. 匿名 より:

    文化祭準備の気持ち悪いテンションとかライブ会場での謎の団結感とか肌感覚で違和感を覚えたものは天蓋の仕業だったのか
    ヒトラーとかとんでもない天蓋があったんだろうなあ

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