シンエヴァ見てきてめっちゃ感動したので感想書きます!

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Cat-with-Lion


お久しぶりのブログです!

この前シンエヴァの映画をやっと観に行きました!

幼少のころからエヴァンゲリオンをウォッチし続けたこのわたし、ついに迎えてしまったこの最終回に涙を抑えきれない感動がありました!
思いのたけをぶちまけるべく、このブログにいろいろ感想を書き連ねたいと思います!

ちなみに、以下ネタバレしまくってしまうかもしれないので、まだ映画を見ていない人は気を付けてくださいね!

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エヴァ大好き芸人を自負しているわたしですが、実は2007年ごろから始まった新劇場版はあんまし好きではありませんでした。

序破Qはすごく出来が良いアニメだとは思うんですが、なんだかエヴァらしくない普通の作品っぽく思えて、「これならエヴァじゃなくてもよくね?」といった感じで、なんだか半分惰性だけで観に行っていたようなところがあります。
(Qはまだエヴァっぽさが出てて、ちょっと好きなんですけどね・・)

しかしこのシンエヴァに関してはほんと良かった!庵野監督は最後にホームランを放った!
庵野監督えらい!

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エヴァンゲリオンという作品は、自分的にはそこいらの普通のアニメとは違っていて「時代の道しるべ」となるような、特別な意味をもった作品だと思います。

この作品が流行った90年代~2000年ごろは、日本全体が落ち目にさしかかり、先行き不安感にとらわれていた時代だったと思います。

このころ誰もがぼんやりと抱えていた「実存的不安」みたいなものを、エヴァンゲリオンは抉り出すように開けっ広げに描写してしまった!

言ってはいけないみんなの内面の真実を、公共の場で暴き立ててしまったエヴァンゲリオンは、とてもスキャンダラスな作品だったと思います。

アートとか純文学でやるような危険な題材を、子どもも見るようなアニメでやってしまうなんて、今だったら炎上してしまいそうな案件ですよね・・

この「時代の道しるべ」となるような作品が、2021年の今ラストを迎えたということは、これからの時代の行く末を暗示していると解釈したくなります(少なくとも庵野監督が考える理想の世界観が表れていそうです)

以下に自分が大事だと思ったシーンを順次ピックアップして参りたいと思います!

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まずは「第三村」の農村暮らしのシーン。

傷心のシンジがふさぎ込んで、みんなから心を閉ざしてボッチ生活を営みます。

そんなシンジをケンスケたちは「しばらく放っておいてやろう」と、距離を置きつつ見守ってやります。

何日間かメソメソと泣き明かしたシンジは、しだいに心を回復させていってみんなと交流するようになりました。

自分も経験あるんですけど、こういうときって時間が解決してくれることが多いんですよね・・。

あと、感情を失ったレイが、農家のおばちゃんや子どもたちと交流していくうちに、人間らしい感情を取り戻していくシーンもあります(取り戻すっていうよりも学んでいるんでしょうか)

「アダルトチルドレン」という言葉の代表格のようなエヴァのキャラたちが、のんびりした田舎の環境で時を過ごしていくうちにだんだん人間らしさを回復させていくというのは、とても示唆に富んだ場面だと思います。

ヴィレの艦隊のなかのピリピリした環境とは裏腹な、こんな避難所のような場所が人間にはきっと必要だということなんでしょうか。

新劇エヴァがハッピーエンド風に幕を閉じたのも、この農村暮らしがあってのことだったのかもしれません。旧劇エヴァには、こんなありがたい環境はありませんでしたよ・・。


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実はこの第三村には、ミサトさんとカジさんの息子が住んでいるんですよね。

息子とシンジが対面をしてちょっと話をするシーンがあるんですが、彼はなんだかさわやかな好青年で、シンジと正反対な性格のように見えます。

ミサトさんはヴィレの艦長をしていて、この息子とはほとんど顔を合わせずに、半分育児放棄をしているといってもいいような扱いをしているはずなんですが、でも息子は村のみんなに囲まれながら健やかに成長をしているようです。

実はこのミサトさんと息子の関係って、ゲンドウとシンジの関係に似ていると思うんですが、なぜ息子は陽キャな性格に成長して、シンジは自己肯定感が低い陰キャな性格に成長してしまったんでしょうか。

シンジが幼少のころから鬱屈した感情を募らせてしまったのも、もしかしたら、シンジが預けられた環境が悪かったのかもしれませんね。

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この第三村のシーンの中でレイが話した、わたしが大好きなセリフがあります。

アスカがレイに向かって「あんたがシンジを好きになるのは、そうデザインされてるからよ」と冷たく言い放ちます。

でもレイは「それでもかまわない、それでいいと思えるから」みたいな返事をします。

これはさらっと大変なことを言っていると思います。

「外部から植え付けられて、プログラミングされた感情でも、自分がいいと思えたらそれでいい」ということを意味しているんです。

これはすごく21世紀的な感覚で、なんだか時代を先取りしていると思います。さすが新世紀エヴァンゲリオン・・。

でもきっと、アスカだってシンジのことが好きになるようにプログラミングされているのかもしれません。アスカだってレイと同じクローンなんですから(あ、ネタバレしちゃいましたね・・)

アスカがシンジにやけ冷たく当たるのは、きっとその気持ちに抗おうとしているためだと思われます。

「自分はプログラムから抜け出したい。設計された自分ではなく本当の自分を生きたい。」と思うのも、すごく大切な感情だと思います。

アスカとレイのどっちの態度がいいか正直自分にはよくわかりませんが、おそらくどっちもいいと思います!

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ちなみに、アスカがシンジに冷たく当たるのって、基本的にシンジのことが気になって仕方ないからなんだと思いますよね。

シンジが塞ぎ込んでいるのを見ると、なんだかムズムズしてきて、ケツを蹴ったり罵ったりしてちょっかい出したくなってしまうんです。

シンジが食事を全くしなくなったときも、口にねじ込んででもご飯を食べさせたくなったり、川沿いで黄昏ているときも、きっとシンジが身投げをしてしまうのが心配だったんだと思います。

まさか飛び込んでしまわないかと、物影からずっと見張ってましたからね。

シンジもたぶんそれを分かっていて「どうしてみんな僕に優しくするんだ・・」と泣いていました。

この「優しくする」には、たぶんアスカのことも入っているんじゃないかと思います。

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こんな牧歌的?な第三村の生活ですが、衝撃的な出来事が訪れます、シンジの目の前でついにエネルギー切れとなってしまったレイが、アボーンしてしまうんです。

これを目の当たりにしたシンジは、静かな闘志を燃やして親父ゲンドウに戦いを挑むことを決意します。

旧劇だったらここでさらに鬱に落ち込んでしまいそうなところですが、どん底からリバウンドした直後のシンジは、反撃のアクションを起こすだけのエネルギーが充填されています。

シンジはアスカといっしょにヴィレに戻って、最後の戦いに出陣していくことになるんですが、正直このラストバトルがなんだかすごすぎてよく理解できない・・。

何千何万という敵が入り乱れて乱戦になっていたり、「〇〇インパクト」とか「〇〇の槍」とか難しい用語がいっぱい出てきて、どういう状況になっているのかもはやよくわかりません。

(このバトルシーンの描写や、裏で流れてる音楽とかは、みんなSF的な元ネタがあるんだそうですが、自分にはさっぱりわからん!)

このイミフな状況は、自分的には「もはや原理がわからなくなってしまった現代」を表現しているのだと、強引に解釈しました。

昔の古代人は、世界は亀の甲羅の上に乗っていて、そこに文明が築かれていることを想像していました。

そして近代人は、太陽が大地を照らし、雨が降り、草木が実るといった自然のサイクル、天文学的・物理的観測によって理解された世界観のもとで暮らしていました。

でもエヴァンゲリオン人は、もはやどんな法則のもとに世界が成り立っているのかよくわからない!

何が何やらよくわからないけども、世界の崩壊を止めるためにアクションを起こし続けないといけないのが、エヴァンゲリオン人=現代人たちのつらいところです・・。

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このラストバトルの最中、フワッと艦体に降り立ったゲンドウと、ミサトさんたちが対峙するシーンがあります。

ゲンドウは「人間に期待するな、みんなLCLに戻るべきだ・・」みたいなことを言って、ミサトさんは「人間を信じる!みんな生き残るべきだ!」みたいなことを言います。

このやりとりは、ちょっとゲンドウサイドの意見が過激すぎて、あまり人々の共感を得られないのではないかと思われます。

LCLに戻るなんて「人類みんな死すべし」みたいにしか聞こえないので、誰だってちょっと抵抗ありますからね。これは今流行りの反出生主義みたいな思想なんでしょうか・・。

このあたりで、ミンキーモモみたいな髪をした隊員が、シンジに「エヴァに乗るな!」と拳銃を発砲するシーンがあるんですが、自分的にはここがけっこう好きです。仲間や家族が亡くなった元凶となったシンジを絶対許せないという、理屈抜きのヘイト感情が剥き出しになっていて、なんだかグッとくるものがありました。

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シンジはゲンドウを追って裏宇宙空間みたいな場所に突入するんですが、ここからがシン・エヴァンゲリオンの真骨頂!

虚構と現実が交錯する空間の中で、エヴァ初号機と13号機が、特撮スタジオや学校の教室やお茶の間で、大乱闘を繰り広げます。

わたしはこのシーンに差し掛かった時に、庵野監督の声を聞いた気がします。

「みんな最近オレのこと舐めてない?こっから本気出すから、ちょっと見てろよな!」

しかし、この荒唐無稽なすごいシーンの連続は一体何を意味しているんでしょうか?

この宇宙空間はフィクションとリアルが交錯する場所なので、明らかにリアルワールドの庵野監督の脳内の光景が投影され始めているようです。

今戦っているのはシンジとゲンドウですが、庵野監督もまた戦っていたのです。厄介なシンエヴァンゲリオンの映画をやっつけるために、監督はこれほどまでに腐心していたとは・・。

この一連のシーンは、わたしの脳内で「エヴァンゲリオン自体がメタな物語空間に移行している」と解釈しました。

旧劇場版では、いきなり実写映像が挿入されて、映画館の中のみんなが映し出されるシーンなどがありましたが、あれと同じで、今上演されている出来事が現実世界とリンクし始めているということです。

乱闘のさなかに壁がぶち抜かれて舞台裏が描写される場面がありましたが、これは映画の空間がぶち抜かれて、みんながいる現実と交錯し始めているということです。

「ここで起きていることはアニメじゃない!」

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この裏宇宙空間の中で突然、エヴァンゲリオン御用達のあの「電車空間」の中に、ゲンドウが引きずり込まれることになります。

幼少期のゲンドウのモノローグが展開され始めて、ついにわたしの涙腺は決壊してボロ泣き!

まるでシンジのような陰キャだった若き日のゲンドウは、ユイに会うことで変わったというのです。

ユイこそが自分の全てであり、ユイ会うためだけにこの計画を実行してきたことを述べ始めます。

わたしのちょっと前の席にカップルが座ってたんですけども、彼氏のほうも涙を禁じえない様子で、ウググッと目頭を押さえていました。

彼女の方もほぉーと感心した様子で、目をらんらんとさせてスクリーンを眺めていました。マジで泣けるんですよこのシーンは・・。

そしてシンジは、自分が外界を遮断するときに使う象徴的アイテム、SDATレコーダーをゲンドウに手渡します。

この意味は「自分は他者を拒絶するのをもうやめる、だからお前ももうやめろ」ということです。

ゲンドウはシンジの中にユイの面影を見出して、電車を降りて退場することとなります。

「お前は大人になったんだな、シンジ・・」

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少年漫画とかでよくある展開なのですが、親父と対決して、親父を倒すことで一人前となる「親殺し」の儀式というのがあると思います。

でも、シンジは親殺しをしないで、親を許すことで一人前の階段を上がってしまいました。

これは一体何を意味するんでしょうか?

ここでわたしがこの前きいた、オタキング岡田斗司夫さんの冴えた考察が思い出されます。カオルくん=ゲンドウ説です。

岡田さんによると、カオルくんは劇中でゲンドウの正反対の役割を担う、ゲンドウの分身的存在だというのです。

シンジに辛く当たり、無条件に否定するゲンドウと、シンジに優しくして無条件に肯定するカオルくん。

そして、二人ともピアノが好きで、本劇場版ではカオルくんが「渚司令」などと呼ばれている謎シーンもあります。

全く似ても似つかない二人ですが、たしかにいくつかの共通点が意図的に強調されている気がする・・。

これはエヴァンゲリオンウォッチャーのわたしも見落としていた、ハッとさせられる解釈です!

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カオルくんはループするエヴァの物語の中で、直接的にせよ間接的にせよ、繰り返しシンジの手によって悲劇的に殺められてしまいます。

もしカオルくん=ゲンドウ説が本当だとしたら、これは巧妙に隠蔽された、親殺しの儀式が反復されていることを意味しそうです。

「親を殺さず親殺し」これが21世紀の子どもたちが経験する、大人になるための通過儀礼なんでしょうか・・?

それともただの庵野監督の個人的な体験が書き込まれているだけなんでしょうか・・?

ともあれ、この親父越えによってシンジは血の連鎖を乗り越えたこととなりそうです。

ゲンドウのように人を拒絶する悲しい隠キャではなく、人生に肯定的な陽キャになれる希望が生まれたんです。

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基本的に旧劇場版はシンジの物語だったと思うんですが、この新劇場版は明らかにゲンドウが物語の焦点となっているようです。

90年代は「キレる14歳」みたいな、メンタルを病んでいる少年少女が問題視されていた時代でしたが、この2021年では「孤立するおじさん」が時代のメインテーマになっていくということが、示唆されているんでしょうか。

たしかに自殺率とかも40~50代くらいの壮年のおじさんが多いと聞きますし、これはなかなかシリアスな社会問題が提起されていそうです。

エヴァンゲリオンももう20年以上やっているコンテンツなので、庵野監督も高めの年齢層を狙った物語を考えたのかもしれませんが、しかし、当時のキレる少年がそのまま孤立する中年になっていなければいいのだけども、などとぼんやりと考えてしまいました(半分自分のこと言ってる気がする・・)

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この映画の最後は、マリとシンジがくっついたイチャイチャラストで締めくくられます。

マリとシンジとは衝撃のカップリングですが、でも考えれば考えるほど、この組み合わせしかない気がします。

そうなんです。他者と繋がることとはこういうことなんです。

レイ派だのアスカ派だのと、そんなことではなく、あるときふと知り合った偶然の第三者でもいいんです。

こういうのは偶有性でありセレンディピティなんです。

マリというキャラをなぜ登場させたのか、全てはこの表現のためにあったといっても過言ではありません。

そこを見抜けなかったわたしは、まだまだエヴァンゲリオンの修行が足りませんでした・・。

マリの導入は、シン・エヴァンゲリオンの思想を体現している見事なラストにつながりました。めっちゃ深いですよこのメッセージは・・。

ちなみに余談なんですが、最後のマリとシンジが手をつないで走っていた実写シーン、あそこに映っていたホテルは、ラブホテルでしょうか、それともただのビジネスホテルでしょうか。

それが気になって、帰りの電車の中でもんもんと考え込みながら帰路につく自分がいました・・。

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旧エヴァンゲリオンのテーマは基本的に否定性。

「みんな死んでしまえばいいのに・・」というキャッチコピーが現すように、世界のすべての歯車が狂っていき、すべてがダメになり、みんな壊れていく。

エヴァンゲリオンは破壊の作品だったんですね・・。

でも新劇場版は、ハッピーエンド的なラストが象徴するように、世界に対する肯定的な表現があふれていたと思います(しかもお手盛りのぬるい肯定性ではない!)

90年代~2010年代にすべてが破壊し尽されてしまったあと、ドン底をついた2020年代のこれからは、新たなネオン・ジェネシスを再構築していく時代なんだという、監督からのポジティブなメッセージが込められていたと思います。

自分は少年時代のシンジのような陰キャの性格のまま大人になり、ついに生まれ変わることはできませんでしたが(良き伴侶もいませんし・・)、でも新しいネオン・ジェネシスを作っていく運動に、みんなといっしょに参加していきたいと思いました!

このシン・エヴァンゲリオン劇場版によって、自分のエヴァの物語は完結しました。

自分にとってエヴァンゲリオンは、今までみた映画や小説や漫画やテレビドラマも含めて、人生の中で一番好きで、一番影響を受けた作品だったと言い切れます!

こんないい作品を見せてくれた庵野監督に、この場を借りてお礼を言いたいです!

「庵野監督!!!!本当にありがとう!!!!」

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