みなさんはこういう経験をしたことがありますでしょうか!?
ピカピカの新入社員のときに、先輩や上司に仕事のことをレクチャーされることがあります!
そんな時に、相手から説明されたことがいまいちよく分からない!
「いったい何が分からないの?」と訊かれてもそれもよく分からない!
「何が分からないか分からないけど、とにかくよく分からない!」という、とってもミステリアスな状態です!
私はこうなってしまうことがよくあるんです・・!
こんな状態になってしまうと、私はなんだか不安になってしまうんですよね・・。
前からおかしいと思っていたこの頭が、ついに完全にイカれてしまったのではないかと・・。
一体「あの状態」ってなんなんでしょうか・・!
あの状態になってしまったとき、私の頭の中はどうなってしまっているんでしょうか・・?
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あのときの私の頭の中を思い出すと、たぶんこういうことが起きていたと思います。
例えば、私が会社で新たに開発中の「新システム」について、お仕事のレクチャーを受けていたとします。
メンバーで会議室に集合して、先輩社員の口から新システムの各モジュールの仕組みについて、一つずつ説明がなされます。
新人の私にはずいぶん難しい話ですが、頑張って説明に聞き入って、各モジュールの機能をなんとか理解しました。
一個一個のモジュールについてはたぶん大丈夫そうです。しかし、なんだかまだ分からないことがあります。
それは、「各モジュール」が連動して「全体」としてどのように働くのかということ!
「断片的な要素」が集積することで、それがどういう「総体」を成すのかということです!
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私が陥った感覚は、どうも「ゲシュタルト」という概念が関係してる気がします。
「ゲシュタルト」とは、心理学用語で「バラバラの要素」が人間の認識によって「総体」にまとめあげられた姿のことを意味します。
「ゲシュタルト」と聞くと、ネットなどで有名なあのネタを思い出します。
「ぬ」という文字をじっと見てると、だんだん「あれ、こんな文字だっけ・・?」と不安になってくるやつです。
「『め』と何がちがうんだっけ・・? 」「ていうか『ぬ』と『め』ってどっちがどっちだっけ・・?」「 あぁ、分からないっ・・!」
となってしまうあの状態、これ俗にいう「ゲシュ崩(=ゲシュタルト崩壊)」というものです。
「ぬ」と判断するのに十分な情報を受け取っているはずなのに、それが「ぬ」であると認識できない。
「ゲシュタルト」をとらえ損なうと、こんな風な不思議な状態になってしまうんです・・。
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この話を「わが社の新システム」に当てはめると、こういうことになると思います。
システムの各モジュールの機能については、ちゃんと説明を受けました。
断片的な要素要素の情報は、おそらく十分得ることができたのです。
しかしまだ何かが足りない。理解に十分な情報が与えられているはずなのに、理解が立ち現われてこない。脳内で「ゲシュタルト」を形成できないのです。
これは言ってみれば、言葉だけがガチャガチャと組み上げられていて、そこに「意味」を宿さないような、なんだか気持ちがわるい状態です。
こんな状態に置かれると「分かったようでよく分からん!」と、ムキーッと頭を掻きむしりたくなるような気持ちになってしまうんです・・。
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以下のGIFを見てください。
ネットで有名な「右回りか左回りかよく分からんバレリーナ」のGIFです。
このバレリーナは、人によって見えている映像は同じはずなのに「右回り」や「左回り」といったように「解釈の仕方」が変わります。
人物の頭があって、手足があって、お尻やおっぱいがあって、それらが運動している・・。
人間はこれらのパーツの運動を見て、脳内で「どっち回り」に見えるかという「ゲシュタルト」をまとめあげます。
そしてこの脳内でまとめあげられた「ゲシュタルト」は、人によって全く違うものである可能性があるということです。
「ゲシュタルト」という概念から得られる教訓は「人は同じものを見ていても違う世界を見ている」ことにあると思います。
世界の切り取り方には、実に人それぞれいろんなパターンがあるということなんですね・・。
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この話を「わが社の新システム」に当てはめると、こういうことになると思います。
先輩からレクチャーを受けて、なんとか自分なりに解釈(ゲシュタルトの形成)はできたとします。
しかし本当に「この解釈」でいいのか・・?もしかして他の人は「別の解釈」をしてるんじゃないのか・・?
という疑念がどこからともなく沸いてきます。
新入社員のときというのは、やたらと勘違いを連発して「自分の読み」に対してなんだか自信喪失気味な時期です。
今回もまた「的外れな読み」をしてしまっているんじゃないかと、心配になってしまうんです・・。
「自分の理解がなんだか人と違う可能性がある。しかしどこが・・?」
バレリーナは「右回り」と解釈されることもあれば「左回り」と解釈されることもあり得ます。さらにポスト真実のこの時代、広い世界にはこれが「バレリーナ」ではなくて「馬」であると主張する人もいそうです(いますかねこんな人・・?)
この「見え方の違い」の可能性を、先輩社員に質問することによってゼロにするのは、とても質問テクニックがいると思います。
だっていったい何を訊ねれば、無数の多元解釈の可能性を、たった一つに集約できるんでしょうか・・?
私の頭に住みついてるこの疑念を払拭することは、なんだか「悪魔の証明」にも似た難しさを感じてしまいます。
一撃で首根っこをとらえて全ての可能性を潰せる「キラーワード」が思いつかなくて、いつも私は黙り込んでしまうんです・・。
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哲学者の柄谷行人さんは、その昔こんなことを言っていたそうです。
コミュニケーションとは常に「暗闇の中への跳躍」である!
「言葉の意味」というのは実はとてもあやふやなもので、会話をしている二人どうしが「言葉の意味」を同じように共通理解してる保障なんてどこにもない。
人間がコミュニケーションしあうこととは、実は目隠し状態でキャッチボールをするような「勘違い・誤読・ミスリード」の可能性に満ち溢れた、とても頼りない行為だということなんです。
双方がバッチリと意思疎通できる(と思い込める)状況は、二人の「会話のコード」が噛み合っているときのみ起きる限定的な出来事なんだと思います。
そういう意味では「相手の説明が分からない」という現象は、「新参者の新入社員」と「古参のベテラン社員」の会話のコードがなんだかすれ違っているために起きていることなんだと思いますね・・。
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上のバレリーナのGIFは、ずっと眺めているとある瞬間「逆回り」に感じられることがあるそうです。
同じものを見ていても、あるときゲシュタルトの様相がガラっと変わること。これを「ゲシュタルトスイッチ」といいます。
世の新入社員の人たちもきっと、会社で仕事を進めていくうちに「ゲシュタルトスイッチ」が切り替わる瞬間が来ると思います。
言葉だけで覚えていて意味が分からなかった物事が、あるときフッと理解できたり。断片的に理解していたバラバラの概念が、あるときカチャっと組み合わさったように感じられたり。
このスイッチの切り替わりは、すなわちその人が集団の「思考様式(=コード)」を身に付けたことを意味するのだと思います。
この「集団のコード」が自らに内面化されたときに生じる共同感覚こそが、ひょっとしたらコミュニケーションの「暗闇の跳躍」の橋渡しするもの、ゲシュタルトをまとめあげる「クッションの縫い目」のような役割を果たすものなのではないでしょうか。
カチャっとスイッチが入って「会社の言葉」が分かるようになってしまったその人は、ついに「会社の人間」になってしまったのだと思いますね(長いサラリーマン人生の幕開けです・・)