photo by Mohamed Aymen Bettaieb
最近ツイッターでちょっとおもしろいつぶやきを見つけたのでご紹介します!
ある学者のおじさんが自分の脳みそを検査したところ「サイコパス」の特徴を示していて、家族や友人にそのことを打ち明けたら
「何をいまさら!」
「君がサイコパスだってことくらいみんな知ってるよ!」
と笑われてしまったというお話です!
自分の脳を調べたら完全にサイコパスの特徴を示していてショックを受けた神経科学者が思い切って家族や友人に打ち明けたら「何を今更」と言われたエピソード好き pic.twitter.com/p153apgKM9
— ドバイの乞食 (@cycode00) September 15, 2017
「サイコパス」って聞くと、なんとなく漫画の悪者キャラみたいなのを想像してしまって、あまり良くないイメージがあると思うんですけども、この人みたいにみんなから親しまれている「愛されサイコパス」みたいな人も中にはいるんだなーと、ちょっぴり感心してしまいました・・!
***
サイコパスな人のイメージをネットで調べるとこんな感じのことが書いてありました。
・「共感能力に乏しい」
・「道徳心がない」
・「異常な行動をする」
共感能力が乏しいために人の気持ちが理解できなくて、道徳心がないために平気で残酷なことができてしまい、異常な行動をして周囲の人を震え上がらせる。これが人々が「サイコパス」に抱いている一般的なイメージだと思います・・。
でも上記の「愛されサイコパス」な人は、おそらくこんな通俗的なサイコパスのイメージとは、ちょっと違った感じの人なんだと思います。
私の想像ですけども、この人はきっと「サイコパス気質」は持っているけども、みんなと仲良くできて、社会生活に適応できるように、うまい具合に人生経験を積んできた人なんだと思うんですよね・・。
***
以前なにかの論文で読んだことがあるのですが、人間の共感能力には「情動的な共感」と「社会的洞察による共感」という、二種類の側面があるそうです。
「情動的な共感能力」とは、相手の気持ちに寄り添って、自分の心に写し取るように理解する能力のことです。例えば、お母さんが赤ちゃんの面倒を見るときなんかは、この能力が助けになると思います。
一方「社会的洞察による共感」とは、相手の置かれた社会的な立場や状況を推理することによって、その人の気持ちを理解する能力のことです。例えば、ビジネスにおける交渉相手の気持ちとか、もしくは政治的に抑圧されているマイノリティの人々などの気持ちを理解するときなんかは、この能力が助けになると思います。
私は思うんですけども、上記のような「愛されサイコパス」の人たちは、生まれつき「情動的な共感能力」に乏しくて、子ども時代はいろいろと苦労することが多かったのではないでしょうか・・?
でも、それを補うために「社会的洞察による共感能力」を頑張って身に付けて、社会に溶け込む訓練をした、きっと彼らにはそんな過去があったのではないかと思います(わたしの勝手な想像ですけども・・)
そうやって身に付けた「社会的洞察による共感」に加えて、正しい倫理・道徳観なども一緒に身に付ければ、その人はきっとみんなから信頼される立派な紳士と呼ばれると思います。
冒頭の「愛されサイコパス」なおじさんは、たぶんとっても聡明で、折り目正しいふるまいをする紳士なので、みんなから親しまれているんじゃないでしょうか・・?。
時々人とズレた変な行動をすることもあるかもしれませんが、それはご愛嬌といったところです・・。
***
しかしこの「社会的洞察による共感」というのは、なんだかとっても興味深いです。たぶんこの能力って、人間だけが持っていて動物などには備わっていない、特別な性質なんだと思います・・。
わたしは最近岸田秀さんの本を読んでいるんですけども(40年以上も前の本です・・)、この本にはとても示唆的なことが書かれています。
岸田秀さんによると、人間は「本能の壊れた動物」であり、動物ならば当たり前に持っているはずの本能の一部が、人間は生まれつき抜け落ちているのだそうです。
人間は本能のままに生きていると、生殖行為=セックスの仕方さえもよくわからないヤバイ生き物で、すぐに絶滅の危機に瀕してしまうおそれがある。なので人間は「文化」を発明して、「文化」によって作り出され、矯正された欲望によって「本能」の欠落を補っているのだそうてす(エッチな漫画とかビデオとかは、意外とこういうところで役に立っているのかしれません・・)
私が思うに「社会的洞察による共感能力」も、きっと人間が生み出した文化的な構築物なのではないでしょうか。人間はある時期から、生まれつき持っている「情動的な共感能力」に加えて、別種の新しい共感能力を持つ必要が生じたのだと思われます。
この新しい能力(=社会的洞察による共感)の使い道の一つは、先に述べたような「先天的に共感能力に乏しい人」に対して、訓練によって「後天的な共感能力」を身に付けさせることができるという点です。
そしてもう一つの使い道は、「社会的連帯=仲間の範囲」を拡張できるという点にあるのだと思います。じつはこの使い道が、とっても重要な意味を秘めているんですよね・・。
***
その昔、リチャード・ローティという哲学者が言っていたのですが、人間の「仲間の範囲」というのは「共感が及ぶ範囲」と、ほぼイコールなのだそうです。
例えば、家族や親友がとても辛い目にあっている様子を目の当たりにすると、自分も共感して「助けてあげたい!」という気持ちになると思います。
でも、ニュース映像などで遠い異国の人が同じような目にあっているところを見たとしても、それほどまでに感じ入ることはないと思います(ちょっとは感情移入することもあるかもしれませんけどもね・・)
これは、自分から遠い人間ほど、共感が及びにくくて「仲間」であると認識しにくくなるためだと思います。
ローティは、人間の「共感」の範囲を拡張して「仲間」と「それ以外」の垣根を乗り越えていくことを提唱した人です。どこか遠くの他人が受けている苦痛や辱め(=残酷なこと)に対して感情移入できる文化を広めて、世界から「残酷なこと」をなくすための、助け合いによる連帯を作ろうというのです(ローティは共感の範囲が行き渡った世界を「リベラル・ユートピア」と呼びました・・)
おそらく原始時代のたかだか数十人くらいの小さな村社会だったら、「情動的な共感」だけで小さな仲間の連帯を作れたと思います。でももっと大規模な「国家」や、国家を超えるような「連合体」をまとめあげるとなると、さすがにそれだけではちょっと厳しいものがあります・・。
もっと射程距離の広い人間の共感能力を意図的に発明して、巨大な連合体を作り上げなくてはいけない。そういった経緯から、おそらく「新しい共感能力」が求められ、世に生み出されたのではないでしょうか・・。
***
ちょっと危険な言い方になってしまうので、ここだけ小さな声で話しますけども、こういう「リベラリズムにおける共感」というのは、どこか「サイコパスの共感」近しいところがある気がします。
これは人間が本来持っている自然な感情を、文化的な教育によって手を加えることで獲得した、なんだか人工的な共感作用だからです。この種の共感作用によって得た「リベラルな連帯」というものは、その範囲が広大に渡るほど、どこかでちょっといびつなしわ寄せを生じる可能性があると思います(最近こういう「しわ寄せ」をニュースなどでよく目の当たりにする気がします・・)
でもちょっと無理があるからといって、私はリベラルな理念以外に良い考えを知りませんし、世間のみんなも当たり前のようにこの態度を取っているので、私も一緒になってこれを実践するしかありません・・。
ローティはきっと、こんな歯切れの悪い態度を許してくれると思います。だってローティは「アイロニカルな態度」が大事だと説いていた人だからです。
自分の信念にどこか頭の片隅で疑問を覚えつつも、表向きには渋々とそのことを支持する立ち位置をとる。こういうあんまし入れ込みすぎない態度が、リベラルな人にとって必要な振る舞いらしいのです。
この態度が抜け落ちてしまうと、最近嫌われがちな「ポリコレ棒を振るう人」とか「正義マン」などと呼ばれる人になってしまう可能性があります。だから私は「これでいいのだ!」と、自分に言いたいです・・。
***
この話をしていて、以前に見た茂木健一郎さんとはあちゅうさんのプチ炎上騒動を思い出しました・・。
茂木健一郎さんがはあちゅうさんの「半径5メートルの野望」という本を、ツイッターで批判したという騒動です。
私ははあちゅうさんの本を全然読んでいないので、完全な妄想でその内容を推測しますが、たぶんこういう内容のことを言っている本なのではないでしょうか・・?。
最近自分の身近な「半径5メートル」のことしか考えられない、世界の狭い人が増えているそうです。こうした閉じこもりがちな人々の世界をもっと広げるためには、手元にあるスマホの「シェア」機能が役立つと思います。モバイル端末を使えば、遠くにいる人間だってあたかも自分の隣にいるように、身近なものに感じられますからね。
「シェア」によって生じた小さな半径5メートルの共感の輪は、リップル状に重なり合い、やがて世界を覆う共感の場所を作り出すでしょう。ローティの夢想したリベラル・ユートピアの野望は、文化によってではなくテクノロジーによって達成されるのです。
(※完全な妄想です)
この主張に対して茂木さんが覚えた違和感は、たぶんこういうものなのではないでしょうか・・?
テクノロジーによって秩序が達成されたとしても、それは「見かけ」だけなのではないでしょうか。その根っこには、結局自分の身近な人だけを優遇したいという利己心が、まだ存在すると思います。
「身近な仲間を助けたい」という気持ちと「遠くの他者を助けたい」という気持ちの違いは、「5メートル」なのか「5000マイル」なのかという距離の大小の違いというよりは、むしろ両者は全く異質な感情機能に基づいている可能性があります。
テクノロジーによって「遠くの他者」を「身近な仲間」に置き替えても、きっと「遠くの他者」を助けたいという感情は、育まれないのではないでしょうか。テクノロジーの力で「見かけ」を達成してしまうことで、私たちの「人類普遍の原理」を求める文化的な理念がやせ細ってしまわないか、少々心配です。
(※完全な妄想です)
以上、完全な妄想話を垂れ流してしまいましたが、もし本人が見ていたら申し訳ありませんと声を大にして言いたいです・・。
コメント
以前、FBI捜査官がサイコパスについて書いた本を読んだ事がある。
巻末に心理テストがあったので、やってみた。
そしたら、僕は紛れもなくサイコパスなのだそうだ。それもかなりヤバくて、心理テストの結果をみると、もしも、僕が北米大陸に住む若い白人男性だったら、厄介なシリアルキラーになる可能性があるのだそうだ。
私は、サイコパス気質があります。しかし、誰かを傷つけたいだなんてみじんも思っていません。むしろ、情動的共感能力を持っているのに関わらず、平気で誰かを傷つけている人々の方が社会に不適合だと思います。((( ;゚Д゚)))