photo by Hans Splinter
最近ちょっと思うんですけど、食事のときに「いただきます」とか「ごちそうさま」とかって言いますよね。
あれって何で言うんでしょうか、何か深い理由があるんでしょうかね・・?
グーグル先生に「いただきます 意味 理由」とかを尋ねてみると、こんな感じの答えが返ってきます。
■1つめは、食事に携わってくれた方々への感謝です。料理を作ってくれた方、配膳をしてくれた方、野菜を作ってくれた方、魚を獲ってくれた方など、その食事に携わってくれた方々へ感謝のこころを表しています。
■2つめは、食材への感謝です。肉や魚はもちろんのこと、野菜や果物にも命があると考え、「○○の命を私の命にさせていただきます」とそれぞれの食材に感謝のこころを表しています。
これは、なんとけしからん文章でしょうか・・!こんな説明では到底納得がいきません・・!
ということで今回は「いただきます」と「ごちそうさま」の言葉に隠された理由について、いろいろ考えてみました!
※本記事にある説明は全て私の妄想なので、あまり真に受けずに参考程度に受け止めてください・・。
いただきますの歴史!
民族学者の柳田国男さんによると、「いただきます」の歴史は意外と浅く、人々の間に普及したのは主に「昭和時代」であるそうです。
一説によると、戦時中の学校教育で「いただきます」と「ごちそうさま」を唱和する規則が導入されて、それが人々の間にしだいに習慣として定着し始めた、というのが「いただきます」の歴史であるそうです。
それ以前の時代の人々は、意外と食事のときの儀礼に頓着がなくて、勝手に仲間たちで集まって、勝手にご飯をパクパク食べて、勝手に片づけを始めるという、なんともフリーダムな食事様式をしていたみたいです。
食事の際に儀礼的な唱和をするのは、「キリスト教徒」とか「仏教徒」とか「イスラム教徒」といった、一部の宗教圏に属してる人たちだけで、一般人の間には特に食事のときに挨拶をする習慣なんかは、あまりなかったみたいですね。
掲示板で文化人類学とかに詳しそうな人が、そう話していました。
いただきますの教育的意図!
戦時中に子どもたちに「いただきます」をさせる教育的意図というのは、どういうところにあったのでしょうか?
当時の資料がないので私の想像の話になってしまうのですが、これはある種の「規律訓練」の一環であったのだと思います。
「規律訓練」とは、哲学者フーコーの説明によると、権力者が人々に「組織の規律」を叩き込むために行う訓練のことです。
「規律訓練」を受けた人々は、「ズルをしてはいないか?」「規則を破ろうとしてないか?」「反抗的な意志をもっていないか?」と厳しく自分を見張っている「監督者」の視線を自らの心に内面化して、しだいに「監督者」がいないところでも、進んで自分を律する態度をとるようになるそうです。
当時の日本は学校教育を通じて、食に対するある種の規律的な態度を、人々の間に浸透させようとしていたのではないでしょうか。
質素倹約の美徳!
では「いただきます」と唱和することで、どのような規律が人々に内面化されるのでしょうか?
それは「食糧を尊重する態度」ではないかと思います。
当時は戦時中で慢性的な飢餓状態にあった時期なので、人々の間に食料をめぐる「いさかい」が起きる可能性が大いにあったと思います。
権力者は人々に「今は物資が不足している時期なので、質素な食事でも頂けるだけで感謝すべきである!」という道徳的な態度を浸透させて、食料をめぐるいさかいを抑止しようという意図があったのではないでしょうか。
戦時中の「いただきます」には、「兵隊さんへの感謝」などを唱和するような決まりもあったそうです。
「兵隊さんはもっと辛い思いをしているので、我々だって我儘を言ってはいけない」ということです。
世界の宗教を見ても、たいてい「食」とか「性」とかって、戒律で厳しくいさめられていますよね。
あれって、人々が欲望のままに振る舞うことに歯止めをかけて、「質素・勤勉・実直なことは美徳!」という道徳観を持たせるために、為政者が定めた規律なのだと思います。
当時の日本政府は「キリスト教の食の儀礼」を参考にして、それを学校教育に組み込んだのではないかと、掲示板に書き込んでいる人がいました。
本当はキリスト教の儀式にはもっと深い意味があるのかと思いますが、それを形だけもらって導入したということなんでしょうね。
共食の文化!
なんだか夢のない話になってしまったので、もう少しいい話をしたいと思います・・。
以前もブログに書きましたが、人々が同じ場所に一堂に会して食事をする「共食」の場には、いろいろ深い意味があるそうです。
太古の昔、人々は祭祀のときに広場に集まり、神様に供物をささげ、皆で一緒に食事をしていたそうです(神人共食というやつです)
この「共食」の儀式には、神と人がつながり、人と人をつなげる意図があったそうです。
皆で一緒に食べ物を分かち合う行為には、互いの結びつきを深める働きがあったんですね。
キリスト教の食事のときのお祈りも、同様だと思います。あのお祈りには、神様や家族や仲間たちと食卓をともにして、感謝の言葉を述べて、信仰や互いの絆を再確認するための儀礼的な意味があるのだと思います(これは私の勝手な想像ですけども・・)
家族やクラスメートやお友達と「いただきます!」と発呼して一緒にご飯を食べる行為には、「私たちは仲間だよね」と確認しあい、親密感を高める効果があるのだと思います。
今の学校教育にみんなで「いただきます!」をする習慣が残っているのは、こういう心理効果を意図しているところがあるのかもしれませんね。
私はいつも一人で「いただきます」をしてるさみしい人間ですが、仲間がいる人たちはぜひ一緒に「いただきます」をすると、相手ともっと親密になれると思います。
あいさつの魔法、ポポポポ~ンというやつですね(意味不明)
まとめ!
以上、「いただきます」の挨拶にこめられた意味を考察してみましたが、いかがでしたでしょうか?
日本人が「いただきます!」と感謝の意を示す対象は、食事を提供してくれた人々であったり、命をささげてくれた動物であったり、兵隊さんであったり、神様であったり、時代によって様々に移り変わるのかもしれませんが、皆と一緒に「いただきます!」をする行為の意味するところは、時代を超えて一緒なのかもしれませんね。
なんだかこういう「空白に対して祈る」という構図は、日本の中のいろんなとこで見受けられる気がしますね。日本人はこういう感性が好きなのかもしれません。
しかし私が気になるのは、最近独りで食事をする「孤食」をする人が増えているというニュースです。独りで食事をするので「いただきます」をしないケースが増えてきているという話ですね(私が筆頭メンバーです・・)
最近ライフスタイルの変化によってこういった「儀礼的なこと」が希薄化してきて、だんだんと失われていく風潮がいろんなとこで見受けられる気がするのですが、これはいったい何を意味するんでしょうか・・。
このことを考察してみたらなんだか面白そうなんですが、しかし私にはちょっと難易度が高すぎて、語れなさそうな気もします・・。
コメント
食材への感謝ですかね…。
最近気になるのが社会的地位の高い人ほど「食べ方が汚い」、「食器の使い方がおかしい」、つまりは犬喰いの人が増えてます。全員じゃなく偏りがあるんですが、個食の影響でしょうね。